「心外無別法」

【住職の日記】
今月から令和元年となり、新しい時代が幕を開けました。新しい時代を迎えることに明るい喜びを感じる反面、平成の時代が終わる寂しさも感じます。

これから、どんな時代になっていくのでしょうか。仏教の言葉の中に「心外無別法」というものがあります。「心の外に別の法はない」という意味です。法というのは、真理、本当の姿という意味でしょうか。心の働きが、あらゆる世界を作り出していく現実を教えている言葉です。

学生時代、大学の先生が、「人間は、頭が良いことよりも、心が豊かな方が人間としての価値があるのです」と何気なくおっしゃった光景が、今も記憶の中にはっきりと刻まれています。二十代前半の頃、受験勉強を終え、頭が良いことが、人として価値のあることと思い込んでいました。それだけに、その時の先生の言葉が、とても新鮮に感じられたのです。仏教というものを、時間をかけて学ばせてもらう中で、今では、そのことを、はっきりと頷ける自分に育てていただいたような気がしています。

仏様が、「心外無別法」と教えてくださっているように、一人ひとりの心の在り方、感受性が、一人ひとりの生きて死んでいく人生の風景を作り出していくように思います。それは、たとえ、元号が新しく変わっても、心が変わらない限り、本当の意味で、新しい世界は訪れないということを意味しているのです。

この心というものについて、親鸞聖人は、大変奥深い考察をされています。『歎異抄(たんにしょう)』という書物の中に、親鸞聖人と弟子の唯円房との次のようなやりとりが記録されています。現代語に意訳してご紹介します。

親鸞聖人
「唯円房は、私の言うことを信じるか?」

唯円房
「はい、信じております。」

親鸞聖人
「それでは、私の言うことなら、何でも背くことなく、言うとおりに行えるか?」

唯円房
「はい、何でもおっしゃるとおりにいたします。」

親鸞聖人
「まず、人を千人殺してくれないか。そうすれば、お前の往生は、確かなものになるだろう。」

唯円房
 「聖人の仰せではありますが、私のような者には、千人どころか、一人の人間も殺すことなどできません。」

親鸞聖人
「それでは、どうして、この親鸞の言うことに背かないなどと言ったのか?」

唯円房
「・・・・・」

親鸞聖人
「これでわかるであろう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せと私が言った時には、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるであろう。」

人は、生老病死の中で、自分の体を自分の思い通りにできないように、心も自分の思い通りにはできません。どれだけ、心を自分の力で磨いたとしても、鍛えた体も必ず老い病んでいくように、心もまた無常なのです。しかも、心は、ただ老いていくだけではありません。どんな姿に変わっていくか分からないのです。自分で制御しきれないところに、心の正体があることを知っておく必要があるでしょう。

親鸞聖人は、私達の心の正体を考察する中で、仏教においては、信心を頂くことが何よりも大切であることをお示しです。信心というのは、親鸞聖人においては、私の心ではありません。仏様の心のことです。信心を頂くというのは、仏様の心を頂くということです。私自身では制御仕切れず、苦しみや虚しさの溢れる世界を作り出していく私の心を、仏様が制御してくださるのです。仏様の心を頂いていくためには、人の心が紡ぎ出した言葉ではなく、仏様の心が紡ぎ出した言葉を聞いていかなければなりません。清らかな言葉が、私の心に清らかな変化をもたらしていくのです。

令和に至るまで、二四七の元号の時代が過ぎてきました。その間、人の心が、お浄土を作り出したことはありません。人の心の中に染み入る仏様の心を頂くとき、初めて人は、迷い惑う自分から解放されていくのでしょう。大切に仏様のお心を頂いていきましょう。

(令和元年5月1日)

2019年5月1日