「死ぬの怖くないの?」

先日、大変お世話になった方が、御往生されたと聞き、ご自宅の方へお悔やみにお参りさせていただくことがありました。正法寺の御門徒ではありませんが、所属される寺院の仏教婦人会の会長などを務められるなど、大変お念仏を喜ばれた方でした。生前中、言葉の端々に仏様の温かさが溢れておられたことを懐かしく思います。

ご自宅の方へお伺いすると、お嫁さんが出迎えてくださいました。お仏壇にお礼をさせていただき、故人のご遺骨と遺影のお写真を前に、お嫁さんから、故人の最期の日々について、大変ありがたいお話をたくさん聞かせていただきました。

故人は、三年ほど前に癌が見つかり、通院しながらの治療が続いていたそうですが、先月の末に病状が悪化し、自宅での療養が難しくなったそうです。コロナ禍で家族の面会も難しい中、幸せなことに、お嫁さんが、入院先の病院の看護師で、看護師として故人の最期のお世話をしっかりさせていただけたそうです。癌の末期になってくると、痛み止めの強い薬を投与する状況になっていきます。この時点で、意識が混濁する患者さんも多いそうですが、故人は、意識がはっきりとされていたそうです。このような死に臨む状況の中でも、普段と変わらない穏やかな様子を目の当たりにして、お嫁さんは、故人に尋ねずにはおれなかったそうです。

「死ぬの怖くないの?」

故人は、次のように答えたそうです。

「怖くないわよ。お浄土に参らせてもらうんだから。お浄土は、ちっとも怖くないすばらしい世界だと聞かせてもらっているの。でも、私は、みんなと離れた遠いところに行くのとは違うの。仏様にさせていただいて、いつでもどこでも、みんなのそばにいるのよ。」

お嫁さんは、仏教のことは、よく分からないと言われます。でも、お義母さんの最期を看取らせていただいて、素直に、自分もお義母さんみたいになりたいと思われたそうです。死してもなお、周りへの思いやりが消えず、自分の死をすっと受け入れ、どこまでも穏やかで安らぎに包まれているようなお義母さんの姿に、胸を打たれたと言います。

死後の世界はどうなっているのか、また、何もないのか、これは、誰にも分かりません。自分自身の死を経験した人は、生きている人の中には、一人もいないからです。「浄土はある、いやそんなものはない」と分からない者同士が言い合ったところで、結論はでません。ではなぜ、浄土という世界を聞いて、受け入れることのできる方がいるのでしょうか。それは、人ではない仏様の言葉に触れ、それを受け入れているからです。本当のことは、人には分からないと言いました。しかし、本当のことに触れると、人は、安らぎを感じるのです。逆に、本当でないものに触れると、人の心は乱れていきます。仏様であるお釈迦様の言葉は、決して二五〇〇年もの間、人の心を乱してきたわけではありません。人々の上に大きな安らぎと安定をもたらしてきたことは間違いありません。どんな命も、混乱した不安定なものではなく、安らぎに包まれた安定したものを求めているのです。

死を前にして激しく怯え、または、絶望したようにあきらめ、後悔や執着、恨みを抱えながら、しょうがないといって仕方なく虚しく死んでいく。それが、本当のことに触れている姿だといえるでしょうか。人が考えることは、全て偽物だと親鸞聖人は教えておられます。人の「浄土なんかない」という言葉も偽物なら、人の「浄土はある」という言葉も偽物なのです。命の根本的な問題、生まれること、生きること、死ぬことについて、人は無力です。無力なら素直に聞かせていただくことです。仏様の「お前は如来の子なんだよ。如来の子なんだから、如来の世界に還ってくるんだよ」という言葉をそのまんま聞かせていただき、如来の子としての人生と死をいただいていくのです。素直に受け入れた仏様の言葉が、私に安定した安らぎと満足をもたらしていきます。これが、自分の力をたのみとせず、仏様の働きによって迷いが破られていく他力本願の救いの世界なのです。

親鸞聖人は、死に様をあれこれ問うことを否定しておられます。今、如来の真実の言葉を素直に受け入れているかどうかを問題にされています。臨終もまた、死に臨む今なのです。仏様の本当の心に触れている人の今は、それが臨終であったとしても安らぎに包まれているということです。

恵まれた人生です。偽物ばかりに心を乱されるのではなく、仏様の本物に触れ、安らぎと大きな満足をいただいていく、そんな尊い今を生き抜いていきたいものです。

2021年2月1日