「温かい仏事」

今年もお盆の季節が過ぎました。今年は、コロナ禍の中でのお盆のご縁となり、様々なことを考えさせられたことでした。特に、県外にいるご家族の方々がお盆に帰省できず、亡き方を温かく偲びながら、多くの家族で仏縁を頂くという姿が見られなかったことは、とても寂しいことでした。

浄土真宗のお盆は、単に先祖供養を目的としてお勤めするのではありません。そもそも、供養という悟りへと続く清らかな行いを徹底できない私達です。お仏壇に向かい、お経を聞かせていただいている間でさえも、雑念が消えることがありません。私は、人を救う者ではなく、仏様から救われねばならない者です。浄土真宗の仏事は、どんな場合でも、私が故人の救いのために勤めていくものではなく、逆に、救われがたい私自身が、故人から恵まれていく尊い仏縁なのです。今年のお盆のお勤めの中でも、そのような尊いご縁に出会わせていただいたことでした。

ある御門徒の初盆のご縁でした。こちらのお宅も、コロナ禍の中で、ごく限られた少人数でのお勤めです。昨年、御往生された故人は、生前中、いつもお寺の御法座にお参りをされ、お念仏を大変喜ばれていた方でした。その故人が、ご家族の方々の上に温かく働いてくださっている様子が、ありありと味わえるご縁だったのです。それは、阿弥陀経のお勤めと御法話が終わり、一人ひとりお焼香していただく時のことです。ご家族全員が、「なもあみだぶつ・・・」とお念仏を声に出して称えられるのです。それは、二十歳代のお孫さん方も例外ではありませんでした。若いお孫さんのお念仏の声は、故人から尊いお取り次ぎを頂いているようで、思わず頭を垂れ、一緒にお念仏をさせていただいたことでした。

親鸞聖人のみ教えは、お念仏を声に出して称える称名念仏が、その中心です。仏教は、本来、行(ぎょう)というものを大切にします。自らの行いが、その人を育てるからです。仏という究極の目標に向かい、仏に近づいていくような清らかな行いを教えるのが、仏教の特徴です。行というものを説かない仏教はあり得ません。仏様のみ教えに従い、正しく生き正しく死んでいこうとする仏教徒には、必ずなさねばならない行いがあります。私達、浄土真宗のみ教えをいただく者にとって、その必ずなさねばならない行いが、称名念仏なのです。「なもあみだぶつ・・・」と声に出して称える日常を歩むことが、私にとって、唯一の仏道なのです。

しかし、このお念仏を声に出して称えるという誰にでもできそうな行いが、大変難しいのです。お念仏を称えるという姿は、お念仏を称えなさいという仏様のみ教えを素直に受け入れている姿でもあります。この仏様が教えてくださることを素直に受け入れるというのが、我の強い人間にとっては、とても難しいのです。実際、お仏壇の前に座り、合掌と礼拝をされる方は、ほとんどですが、お念仏を声に出して称える方は少数です。これは、寂しいことですが、仏様のみ教えが届いていないか、聞いていても、それを受け入れていない姿と言わざるをえません。

ところが、親鸞聖人は、それが普通の一般的な姿だと言われます。人というのは、そもそも、仏様のみ教えを素直に聞き、お念仏を申すということが、できないものだと言われるのです。私がもし、お念仏を声に出して称える身であるなら、それは、他ならない仏様の働きによるものだと言われます。その働きの根本は、阿弥陀如来の清らかな願いです。私を救いたいという深い慈しみからくる一途な願いが、清らかな働きとなって、私を育ててくださるのです。

また、親鸞聖人は、お念仏そのものが、仏様だとも言われます。本当の願いは、願うだけに留まりません。私を愛し慈しむ願いは、慈愛に満ちる言葉となって、私を包んでいきます。仏様の願いが、言葉となって現れたのが、お念仏なのです。お念仏を声に出して称えるというのは、仏様の愛と慈しみに温かく包まれていくことを意味します。お念仏を称えなさいと教えられているのは、清らかな仏様に出遇い、抱かれ導かれる人生を歩みなさいということです。仏様とは、私が勝手に想像していくような空想ではありません。目の当たり出遇せていただかないと意味がないのです。死んでから遇うのではありません。仏様には、今、遇わせていただくのです。

お念仏の声が響く仏事は、そこにいる誰もが、清らかな仏様の願いに抱かれていきます。それは、お浄土へ先立たれた故人が、私達に、仏様の願いを聞かせてくださっていることに他なりません。故人のご恩を大切に味わい、お念仏の声が響く、温かい仏事を大切にさせていただきましょう。

2020年9月1日