「煩悩具足の凡夫」

【住職の日記】

連日、ウクライナでの悲惨な現状がニュースで流れています。人の命が、桁違いに亡くなり、悲しみが渦巻いていく映像に、心が痛みます。人間は、何千年経っても、同じ過ちを繰り返すものであることを教えられています。自らの都合を貪り、都合を邪魔するものに怒りを起こしていく人間の根本煩悩は、地獄という世界を作り出していきます。仏様が教えてくださっていることを、今一度、大切に聞かせていただく必要があるように思います。

日本に本格的に仏教を伝えた最初の人は、聖徳太子だと言われています。それは、仏像や寺院といった文化的なものを伝えたという意味ではありません。お釈迦様のみ教えの精神を正しく受け止めていかれた最初の日本人が、聖徳太子なのです。

それは、有名な『十七条憲法』に表われています。『十七条憲法』の第一条は、「和らかなるをもつて貴しとなし・・・」という有名な言葉から始まります。本当に貴いものとは、天皇や貴族のことではなく、みんなが思い合う平和な状態のことを言うのだというのです。そして、それに続く第二条は、「篤く三宝を敬ふ。三宝とは仏・法・僧なり。」という言葉で始まります。平和が成立する一番の根源は、仏・法・僧の三つの宝を敬うところにあるというのです。仏とは、あらゆる命を心から慈しみ悲しむことができる真実に目覚めた仏様です。法とは、その仏様が、私達を正しい方向へと導くために教えてくださるみ教えです。僧とは、その仏様のみ教えを聞き敬う人々の集団のことです。この三つを宝物とし、心の拠り所として人々が生きたとき、初めて社会に本当の平和が成立すると教えてくださったのです。そして、その後には、「それ三宝に帰りまつらずは、なにをもつてか枉れるを直さん。」と示されます。この仏・法・僧の三宝を拠り所としなければ、自己中心的に曲がった根性は、決して正されないと言われます。

自己中心的に曲がった根性については、第十条で示されていきます。第十条は、「忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふを怒らざれ。」という言葉で始まります。難しい表現で語られていますが、人から気に入らないことを言われたからといって、腹を立ててはならないということです。その後には、「人みな心あり、心おのおの執ることあり。」と続きます。みんな心というものを持っていて、みんなそれぞれに思っていることが違うというのです。その後には、「かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みすればすなはちかれは非んず、われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。」と続いていきます。相手にとって正しいことが、そのまま私にとっても正しいこととは限りません。逆に、私にとって正しいことが、相手にとって正しいこととは限らないのです。そして、それは、私が決して間違いを犯さない聖人なのでもなく、相手が、必ず間違いを犯す愚か者なのでもないのです。お互いに過ちを犯しやすい普通の人だと言われているのです。また、その後には、「是く非しきの理、たれかよく定むべき。」と言われています。普通の人間には、誰が絶対的に善であり悪であるのか、是が非を決めていくことなど、できはしないんだと言われるのです。

この普通の人間が、仏・法・僧の三宝を見失ったとき、どんな恐ろしいことが起こっていくか分からない。だから、常に仏様のみ教えを拠り所として生きることを忘れてはならないと、聖徳太子は、当時の最高権力者として示していかれたのです。

お釈迦様は、人を苦しめる根源は、自らの煩悩にあることを教えてくださいました。平常時は、穏やかな流れの河も、濁流となれば、止める術はありません。一度、激しく燃え上がった炎も、簡単には消し去ることはできないのです。人は、平常時は、穏やかに見えても、自らの貪りの濁流に呑み込まれ、自らの怒りの炎に激しく焼き尽くされていく悲しさを抱えています。

人は、自分の力で自分をコントロールできない弱い存在です。そのことを親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫という言葉で表現されていかれました。しかし、煩悩具足の凡夫は、弱く深い悲しみを抱えるが故に、阿弥陀如来の救いの目当てとなったのです。私達は、見捨てられた存在ではありません。仏様から願われている存在なのです。

今、世界は、大きな悲しみに包まれています。この悲しみは、弱いが故の残酷な人間が作り出したものです。私の中にも、同じように、大きな悲しみを生み出していく恐ろしさがあることを知っておくべきでしょう。仏法を拠り所として、自分自身の姿を見つめ直す日々を大切にさせていただきましょう。

 

 

 

2022年3月30日