「真実と方便」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の葬儀の後、御往生された奥様の看病について、大変ありがたいお話を聞かせていただきました。

御往生された奥様は、十年ほど前から認知症を患うようになられたそうです。それまでは、家事等の身の回りのことは、すべて奥様がしてくださっていたそうですが、だんだんとそれも難しくなっていったといいます。それまで当たり前に出来ていたことが出来なくなっていくのは、ご本人にとっても受け入れがたい厳しい現実です。ご主人は、奥様の心が傷つかないよう、様々な配慮をしながら看病を続けられたそうです。自分の用事で外出しなければならない時も、奥様を家に一人で居させるわけにはいきません。そんな時も「僕は一人で出かけるのが不安なんだ。僕のために一緒についてきてくれないか。」と声をかけ、一緒に外出したといいます。洗濯物をたたむことも、食器を洗うことも、だんだん出来なくなっていく奥様を傷つけないよう、一生懸命しようとされる姿をそっと見守り、奥様のいないところで、ご主人がやり直す日常だったそうです。その献身的なお姿に、ただただ頭が下がる思いで聞かせていただいたことでした。

奥様は、最期まで、ご自分がご主人を支え守っているということが、生きる喜びだったそうです。でも、本当に守られていたのは、奥様ご自身だったのです。この愛情深いご夫婦のお姿を聞かせていただく中に、仏様のお心を重ねて味わわせていただいたことでした。

親鸞聖人は、仏様のみ教えの中には、真実と方便があることを教えておられます。真実とは、裏表のない本当のことという意味です。方便というのは、「嘘も方便」という言葉がありますが、嘘をつくことではありません。仏様が、私を真実へと導く手立てのことを方便といいます。人間は、自らの価値観や視野に縛られ、進むべき方向性を見失う存在です。それを迷いの凡夫というのです。不幸になる道を正しいと思い込み、突き進んでいくのです。仏様の救いというのは、進むべき方向性を恵んでくださることなのです。けっして私の都合をかなえることが救いではありません。人生という道は、どんな道を行こうが、私の都合ばかりがかなう平坦な道などありません。必ず、どんな道にも険しさがあるのです。しかし、道を歩むのに方向性を持つか持たないかは大きな違いです。険しさの中にも、様々な手立てをもって、私を守り導いてくださる働きが、仏様です。

人は、真実をそのまま受け止めることができるほど強くありません。もし、先ほどのご主人が、奥様に対して「お前は認知症だから、一人で家に居ることはできないんだ。僕が守ってやるから、一緒に外出しよう」と、そのまま真実を伝えていたなら、奥様はご主人に付いて外出していたでしょうか。真実をそのまま伝えることは、けっして優しさではないのです。親鸞聖人は、仏様のお言葉には優しさが満ちあふれている。だからこそ、仏様のお言葉の中には、真実でない方便もたくさん含まれているとおっしゃったのです。

仏教の中には、『法華経』を拠り所とした天台宗の自力修行や日蓮宗のお題目、また、『大日経』を拠り所とした真言密教や『般若経』を拠り所とした禅宗の座禅など、様々なみ教えが説かれています。これらは、すべてお釈迦様がお説きになられた素晴らしいみ教えです。どの道を選び進んでいくのかは、それぞれの選択です。選択とは、選び取り、選び捨てるということです。選び捨てられたものは、不要なものであり、普通は意味のないものと見なしがちです。しかし、人生において意味のないものなどありません。迷ったことにも意味があります。道草にも大切な意味があるのです。

親鸞聖人は、九才から二十九才までの比叡山での命がけの修行の日々を選び捨て、法然聖人のお導きで専修念仏一行の道を選び取っていかれました。しかし、その二十年の日々を、けっして無駄だったとはおっしゃらないのです。あの日々は、如来様の温かい方便の中にあったと味わっていかれます。如来様は、いつでも真実が分からない私を、様々な手立てをもって、守り導いてくださっているのです。

私が生きているつもりが、実のところは、如来様に生かされているのでしょう。人生における悲喜交々は、すべて如来様による温かいお育てです。どんな出来事の中にも、お慈悲を味わえる日々を大切にさせていただきましょう。

 

2022年11月29日