「縁起の道理」

【住職の日記】

先日、あるお寺の御住職から、次のようなお話を聞かせていただきました。それは、その御住職が、御門徒のお宅にご法事のお勤めに上がられた時のことです。家の前に車で到着すると、ご親戚の方々が、家の中に上がらず、玄関の前で集まってお話をされていたそうです。御住職が、ご親戚の方々に「どうされましたか?」とお声を掛けると、ご親戚の方々が「鍵が閉まっているんです。インターフォンを鳴らしても、電話をしてみても、何の返事もないんです。」とおっしゃいます。とりあえず、鍵の業者さんに依頼をし、玄関の鍵を開けてもらったそうです。すると、その家のご主人は、台所のテーブルに突っ伏したまま亡くなっておられたといいます。警察の検死の結果、お食事中に、心臓の血管が詰まり、突然死をされたということでした。亡くなってから、数日経過していたそうです。そのご主人は、一人暮らしだったそうですが、もし、ご法事の約束をしていなければ、誰にも見つけられることなく、さらに月日が経過していたことでしょう。孤独死という現実が、身近にもあることを教えられた悲しくなるお話でした。

現代は、「孤独」という言葉が、世の中に溢れているような気がします。個人の権利が守られる一方で、他人との繋がりが希薄になっているように思います。その傾向は、コロナ禍の中で、さらに顕著になってきているのではないでしょうか。他人に無関心になっていく社会は、どこか病的な感じさえします。命ある者にとって、孤独ほど、恐ろしいものはありません。

仏教において、悟りを開き仏に成っていくというのは、この孤独を破っていく世界に目が開かれていくことだと思います。仏様の悟りの内容は、私達には思いはかることのできないものですが、学問の世界では、それを「縁起の道理」と定義しています。お釈迦様は何を悟られたのか、それは縁起の道理を悟られたと言われているのです。縁起の道理というのは、日本では「ご縁」という言葉と共に、日本人の感性に根付いてきました。私が、不思議な繋がりの中に生かされているという感性です。「縁起」というのは、「縁って起こる」という意味ですが、この世界のあらゆる命や出来事は、縁って起こっているものしかないというのです。縁って起こるというのは、関係し合っているということです。

例えば、蝋燭に灯っている火を考えてみましょう。火というのは、火だけの力で発生し存在することはできません。何もないところから火は出ません。まず引火する蝋がなければなりません。その蝋も、様々な働きの中で用意されていきます。しかし、蝋だけがあっても火は発生しません。マッチやライターが必要です。また、真空では火は発生しません。空気が必要です。その空気も風に変わる環境では火は灯りません。風の吹かない穏やかな空気が保たれる場所でなければなりません。その空気も、広大な宇宙の中で、どの星にも当然のようにあるわけではありません。地球に空気があるというのも、果てしない縁の重なり合いの中で、たまたまここに存在したのです。少し考えても、蝋燭に灯っている火というのは、思い測ることのできない様々なご縁の中で実現しているものなのです。そして、灯った火もまた、様々なものに関係していくのです。命も同じ道理です。一つの命が実現している根っこには、思い測ることのできない様々なご縁の重なり合いがあります。網の目のような無数のご縁の重なりは、途切れることはありません。無限の広さと深さを持っています。どんな人間、どんな生き物も、みんな深いところで繋がりを持っているのです。

仏様というのは、縁起の道理を完全に悟り、私とあなたという区別さえない世界に目が開かれた方を言うのです。あらゆる命が我が一人子のように愛おしく、あらゆる命の悲しみが仏の悲しみなのです。そんな仏様に死はありません。仏様という命は、個体の枠に収まるものではないからです。個体の命が消滅しても、命そのものは、無限の広さと深さを持つものなのです。

孤独になるというのは、真理とかけ離れた悲しい姿です。しかし、迷いの凡夫である私達は、真理に暗く孤独に落ち込んでいきます。仏様のみ教えというのは、「一人ではないのだよ」という一言に尽きていくのかもしれません。仏様のお言葉を聞かせていただくというのは、孤独が破られていく世界に目が開かれていくということでしょう。

孤独感が深まる時代の中に、仏様のみ教えを聞かせていただくことの大切さを、改めて感じます。コロナ禍の中、仏様のみ教えに耳を傾け、生かされている身の尊さを喜ばせていただきましょう。

 

 

 

2022年2月28日