「驚くべきことに驚き、喜ぶべきことに喜んでいく。」

【住職の日記】

先日、日曜学校の子ども達に、妙好人として有名な足利喜三郎(あしかが きさぶろう)さん、通称、因幡の源左(いなばのげんざ)さんのお話をさせていただきました。源左さんは、鳥取県の浜村温泉に近い山合いの小さな村に生まれ育った根っからのお百姓さんで、文字は、読むことも書くこともできなかった人でした。江戸末期の天保十三年に生まれ、昭和五年に八十九歳で御往生されています。

源左さんが、本気で仏教を聞くようになったのは、十八歳の時、頼りにしていた父親が、コレラで亡くなったのが大きな機縁になったと言われています。最初は、お寺にお参りし、仏様のお話を何度聞いても、なかなか仏様のお心を味わうことができなかったそうです。しかし、様々な人生の苦悩をご縁として、真剣に仏法を求め続ける中で、実感として仏様の存在を味わえるようになっていかれます。

真の念仏者に育っていかれた源左さんの口癖は、「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」だったそうです。私達は、自分に都合の良い出来事は、「ようこそ、ようこそ」と喜んで受け入れていくことができます。しかし、源左さんの「ようこそ、ようこそ」は、逃げ出したくなるような人生の苦難の中にあっても、同じように「ようこそ、ようこそ」と受け入れていくものでした。私達の人生は、思いのままにならない生老病死に貫かれています。このけっして逃げることのできない根本的な人間苦を、どのように乗り越えていくかが、仏教が課題としているものなのです。思いのままにならない自分の生まれも老いも病も死でさえも、大切なありがたいものとして「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と受け入れ、自分の人生に合掌していかれたのが、妙好人源左さんのお姿だったのです。

こんな内容のお話を、子ども用にかみ砕きながら、日曜学校でお話させていただきました。お話をさせて頂いた時、一番前に座って聞いてくれていた女の子が、一言「すごっ!」と声を上げてくれたのです。とても子どもらしい素直な反応に、こちらが感動させていただいたことでした。

仏様のお話というのは、誰もが、それを聞いて感動出来るものではありません。人間境涯においては、社会的な地位や名誉、また、財産を手に入れることの方が、価値があるものとされます。社会的に地位がある方、大企業の社長や大臣といった方々は、人間社会からとても大切にされます。警護の方がつき、命を守ってくれます。移動も運転手付きの立派な車だったりします。それは、人間社会から価値あるものとして認められているからでしょう。逆に、根っからのお百姓さんであった源左さんのような方には、警護の方もつきませんし、運転手付きの車も用意されません。普通は、文字の読み書きもできないお百姓さんの話よりも、大企業の社長さんような立派なサクセスストーリーを聞くことの方が、人間は、興味を持ち感動するものなのです。

そんな中で、仏様の悟りの世界に触れて、「すごい!」と感動出来るというのは、それこそ、すごいことだと言わなければなりません。それを親鸞聖人は、不思議という言葉で表現されています。私達が、仏様のお話を聞いて、それを有り難いものとして感動し、頷いていくというのは、当たり前のことではなく、不思議なことだとおっしゃるのです。親鸞聖人は、その不思議は、阿弥陀如来様の願いの働きによるものだともお示しくださいます。仏様のお話を聞き、感動できる姿は、阿弥陀如来様の願いに抱かれている姿でもあるのです。

喜ぶべきことに喜び、驚くべきことに驚いていく、人が人である所以は、そんな豊かな感受性にあるのではないでしょうか。浄土という言葉で表わされていく仏様の世界は、あらゆる命がキラキラ輝いている世界として説かれていきます。それは、私達命あるものの充実した姿、満たされた本当の幸せな姿が、どんな姿であるのかを教えてくださるものなのです。

人が本当に輝いていくのは、社会的な成功や欲望が叶えられた時ではなく、本当の喜びと感動に心が満たされていく時でしょう。たとえ、社会から必要とされないような立場であっても、本当の喜びと感動に心が満たされている人は、輝いています。仏様の救いの世界は、一人一人のどんな人生の上にも、本当の輝きをもった命の有り様を恵んでくださるものなのでしょう。

限りある毎日です。欲にまみれた願いを追い求める日々ではなく、仏様のお話を聞いて、驚くべきことに驚き、喜ぶべきことに喜んでいく、何十歳になっても仏様の願いに抱かれる本当の輝きに満たされた日々を大切にさせていただきましょう。

2023年6月1日