どんな時も、どんな私でも、如来様が必ずご一緒である

先日、お寺の近くの道路で、捨て猫を保護しました。二日間ぐらいでしょうか、ずっと猫の鳴き声が、お寺まで聞こえていました。探してみると、国道二号線脇の茂みの中に、生後四ヶ月ぐらいのオスの子猫がうずくまっていました。保護し、お寺まで連れて帰ると、最初は怯えていましたが、とても人懐っこく甘えん坊です。トイレも、市販の猫砂の上できちんとすることができます。おそらく、最近まで人に飼われていたのでしょう。二日間も鳴き通しで、声が枯れていました。猫は、猫同士のコミュニケーションでは鳴いたりしません。猫が鳴くのは、人間に対してなのです。よほど不安で寂しかったのでしょう。見捨てるという行為の残酷さを、改めて教えられたことでした。

浄土真宗というみ教えにおいても、この「見捨てる」という行為は、大きな意味をもっています。親鸞聖人が、そのご生涯で必死に救いを求められたのも、「見捨てられた者」という実感を、強くお持ちだったからなのです。

仏と凡夫との違いを、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』というお書物の中には、具体的に恐れおののく心の有無にあることが説かれています。そこには、五つの心が示されています。一つは、不活畏(ふかつい)という心です。これは、上手く生活していけるかどうかに対する恐れです。人間、何十歳になっても、生活に対する不安は拭えないのではないでしょうか。二つには、悪名畏(あくみょうい)という心です。これは、人に悪口を言われていないかという恐れです。自分の悪口が耳に入っても、平常心でいられる人はいないでしょう。心がざわつくはずです。三つには、怯衆畏(こうしゅい)という心です。これは、人目を恐れるということです。誰でも人からどう思われているか、人の評価を気にしながら生きています。四つには、命終畏(みょうじゅうい)という心です。これは、自らが死んでいくことに対する恐れです。死への恐怖は、誰もが抱くものです。誰もが、死に対して無知だからです。理解できないものは、恐ろしいのです。五つには、悪趣畏(あくしゅい)という心です。これは、悪い所に行きはしないか、状況が今よりも悪化するのではないかという恐れです。これも、誰もが抱えている恐れでしょう。凡夫というのは、このような恐れや不安を抱く者のことをいうのです。一つでも当てはまれば、立派な凡夫です。逆に、このような恐れや不安を、何一つ抱かない者を聖者、仏様というのです。仏様には、恐れや不安はないのです。

仏道修行が順調に進んでいくと、このような恐れや不安が消えていき、人格が安定し、仏様に近づいていくとされます。しかし、仏道修行をいくら積み重ねても、仏に近づけない、不安や恐れを抱き続ける人はどうなるのでしょうか。それは、見捨てられるということです。お釈迦様は、仏に成るために必要な道を示されました。その道を歩むのは私自身です。歩めない者は、お釈迦さまからも見捨てられる、どうしようもない者ということです。本来の仏教の枠組みでは、このように考えられていました。

親鸞聖人も、比叡山でご修行されていたとき、不安や恐れが消えない中で、見捨てられた子猫のように、心の中ではただ救いを求め、叫んでおられたに違いありません。しかし、不安や恐れの中に落ちていく者を、決して見捨てることができないのも、仏様だったのです。仏様というのは、道を示し、できるものだけを評価する先生ではなかったのです。できるものを評価するのは当然ですが、それ以上に、できない子どもを放っておけない愛情深い親のような存在だったのです。

『仏説阿弥陀経』の中に迦留陀夷(カルダイ)という名の聴衆がいたことが説かれています。このカルダイは、お釈迦様の仏教教団の中では、戒律も教えも守らない不良青年のようなお弟子だったと伝えられています。しかし、不良青年のカルダイも、お釈迦様が阿弥陀如来様について説かれるお説教の場には、座ることが許されていたということです。お釈迦様の仏教教団では、どんな人にも居場所が恵まれていたのです。

仏に見捨てられても仕方がないような凡夫にも、居場所は恵まれています。それを親鸞聖人は、阿弥陀如来様から願われている私だよと教えてくださいました。けっして見捨てられることのない私との出遇いが、浄土真宗だと思います。お念仏を申す中、どんな時も、どんな私であっても、如来様が、必ずご一緒であることを大切に喜ばせていただきましょう。

2021年8月2日