仏教は、知識よりも智慧を尊ぶ教え

先日、ご縁が調い、ご本山本願寺に布教に関わる研修を、五日間にわたって受講させていただきました。スケジュールを五日間空けることが難しく、前々から受講したい思いはありましたが、なかなか実行に移すことが出来ないでいました。しかし、この度、たまたま様々なご縁が調い、有難くも受講をさせていただくことができました。住職、ご院家さん、先生と呼ばれる日常から離れ、久しぶりに一生徒として学ぶ場に身を置かせていただいた事は、大きな気づきを色々といただいたことでした。

全国から集まった受講生とともに、五日間学ばせていただく中で、他の受講生とも色んなお話をさせていただく機会がありました。年齢は、三十歳代から八十歳代まで様々な年代の方々がいらっしゃいました。それぞれに、色んな想いを持って学びに来られていましたが、その様々な尊い想いに出遇わせていただいたことが、とても有難く感じたことでした。

あるご住職は、お寺を護持していくことが御門徒だけでは難しく、平日は、会社に勤める日常を送られているということでした。課長職として日々世俗の価値観に追われる中で、僧侶としてみ教えときちんと向き合う時間をいただきたいとの思いで、休みをとって来られていました。また、ある方は、浄土真宗のお寺でもご門徒の家の出身でもないにも関わらず、肉親との死別をご縁に浄土真宗のみ教えに出遇われ、お得度をされ僧侶となり、さらにこのみ教えを多くの人々に伝えたいとの強い思いをもって、受講に臨まれている方もおられました。想いはみんなそれぞれでしたが、共通していたのは、それぞれの人生の悩みや苦しみを抱える中で、仏教のみ教えと素直に向き合っていこうとされるとても謙虚で純粋なものでした。この謙虚な想いを持つことが、とても大切なことだと思います。

実は、仏教の教えというのは、聞けば聞くほど分からないことがたくさん出てくるものなのです。なぜなら、仏様の世界は、私達には完全に理解することは不可能だからです。しかし、このように私には分からないものだからこそ有難いのです。私に簡単に分かってしまうものなら、それは、私程度でも理解が出来るつまらないものでしょう。私程度では理解の出来ない尊いものだからこそ、一生涯かけて学ばせていただく価値があるのです。

また仏教は、知識よりも智慧を尊ぶ教えです。知識は、仏教を知的興味の対象として学ぶ中に身についていくものです。それは、たくさんのことを覚え知っているというだけのことです。どれだけ知識を蓄えていても、それは、自らの血となり肉となることはありません。冷蔵庫にたくさんの食材を溜め込んでも、それを調理して頂かなければ、何の役にも立たず、ただ腐っていくのと同じことです。智慧は、私の人生の上に仏教の教えを頂く中において、身についていくものです。それぞれの人生において、謙虚にみ教えと向き合っていく時、喜びの中に響いてくる言葉、悲しみの中に響いてくる言葉があります。その積み重ねの中に、自然と仏様のものの見方、味わい方が身についてくるのです。その身についたものを智慧というのです。

仏教を聞く上において、分からないことがあるのは問題ではありません。それは、今の自分には、響かない事柄なのでしょう。仏様というのは、大勢を前にして、講義のように、同じことを教えているのではありません。その人その人に仏様は寄り添い、その人に応じた言葉を響かせてくださるのです。本当に喜びや悲しみの中に、素直に教えと向き合う時に、仏様のお心は必ず響いてくださいます。それを素直に喜んでいく、お念仏を申す日暮しというのは、その連続なのです。

しかし、私達は、自分勝手な思いを深め、傲慢になっていく性質を根本的に持っています。教えを聞かせていただく身でありながら、教える立場になったり、仏様の言葉よりも自分の言葉を正しいと思いこんだりする中に、迷いを深めていきます。

親鸞聖人が、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と常々おっしゃっていたことを、唯円という方が『歎異抄』の中に記しておられます。親鸞聖人は、自分を師匠と仰ぐ人々の前においても、教えるという立場をとっておられなかったことが分かります。それは、仏様のお言葉を一緒に聞かせていただく尊い仲間という立場です。八十歳、九十歳になられても、聞かせていただくという立場から決して離れることはなかったのです。これが、教えと真面目に向き合っている方の本当のお姿でしょう。親鸞聖人が、生涯大切に聞かれた同じみ教えを、私達も、それぞれの人生の上において、大切に向き合い聞かせていただきましょう。

2019年3月7日