山門をくぐる

先日、御門徒の方々が、お寺で次のような会話をしておられました。

 「お寺にお参りして、お話を聞くと、分からなくても、なにかスッとした気になるんですよね。」
「私も、それ分かります。会社でいやなことがあっても、お寺にお参りすると、いやなことを忘れるんですよね。一度リセットできて、また、会社に行けることがありますよ。」
「そうですね。仏様のお話を聞いてると、悩んでいることが、なにかちっぽけな感じがしてくるんですよね。」

大学生の時、龍谷大学に入学し、生まれて初めて仏教に触れる友人に、「お寺って、何のためにあるん?」と尋ねられたことがあります。お寺で生まれ育った者にとっては、根本的すぎる質問に、大変戸惑った記憶があります。しかし、それと同時に、世間一般的に捉えられているお寺の印象を、初めて教えられて気がして、驚きを覚えたことでした。

お寺とは、何のためにあるのでしょうか。また、なぜ、何百年も現在まで残されてきたのでしょうか。それは、仏法を伝え、聞くためでしょう。お寺でなければ、表現の出来ない、聞くことの出来ない事柄があります。公民館やカルチャーセンターでも、仏法の話はできます。しかし、本当に仏法を表現し伝えることができるのは、お寺以外にはないのです。お寺は、阿弥陀如来様というご本尊を中心とした宗教的儀礼空間です。この阿弥陀如来様を中心とした空間の中で、私達は、仏法というものに本当に触れることができるのだと思います。

そもそも、誰もが、自分の人生の主人公は自分です。日々の暮らしの主人公は、自分以外にはありません。日々の暮らしの中で経験していく喜びや悲しみは、自分を主人公とした物語を紡いでいるといえるでしょう。その主人公は、いつも幸せな笑顔で過ごせるのが理想です。そのために人は、日々、格闘していかなければなりません。人の都合は、人の数だけあるからです。一人の都合が叶うということは、もう一人の都合は叶わないということでもあります。私の喜びの影には、必ず誰かの悲しみと我慢があることを忘れてはならないでしょう。生きるということは、常に自他共に傷を伴うものなのです。

そんな日常生活を送る私が、癒やされる場所があるとすれば、それは、主人公であることを一旦休める場所ではないでしょうか。実は、お寺という空間は、主人公であることを休める場所なのです。お寺の山門は、主人公が入れ替わるための結界のような意味をもっています。山門をくぐった先の空間は、阿弥陀如来様が主人公の世界です。

私の人生は、本来、私にしか味わうことのできないものです。しかし、もし、私以外の誰かが、私の人生を経験したとしたら、それは、私が受け止めたものとは全く異なる景色が、そこには現れてくるはずです。同じ出来事でも、受け止め方や感じ方は、人によって様々だからです。阿弥陀如来様という仏様は、私の人生を一緒に歩んでくださる仏様です。それは、誰にも理解してもらえないような深い悲しみも、大きな喜びも、如来様は、私と共に経験してくださるということです。そして、私とは全く異なる景色を見せてくださるのです。

如来様が教えてくださる人生の景色に触れると、悩んでいることもちっぽけに感じることもあるでしょう。また、喜びの中に、違う深さを味わうこともあるでしょう。仏様が味わい教えてくださる私の人生は、輝きに満ちています。

親鸞聖人は、自力という姿勢を否定され、他力に帰する姿勢を勧められました。しかし、それは、努力を否定され、人に甘えることを勧められたのではありません。自分の頑なな了見に固執することを否定され、清らかな仏様の了見に身と心をまかせていくことを勧められたのです。

誰もが、人生という戦場を必死に戦い生き抜いている戦士です。人生を生きるというのは、本当に厳しいものです。必死に我を張らないと、持ちこたえられないのが人生でしょう。しかし、お寺では我を張らなくてもよい世界が恵まれていくのです。私を慈しんでくださる阿弥陀如来様の前では、我を張らなくてもよいのです。「必ず仏にする」、如来様は、私にそう呼び続けてくださいます。仏になっていく私の人生を、如来様は、けっして見捨てず愛し、慈しみ続けてくださいます。

宗教的空間に身を置くという時間は、人間にとって、なくてはならない大切な時間だと思います。我を張って生きる日々の中に、山門をくぐり、お寺にお参りする時間を大切にさせていただきましょう。

2021年5月1日