死もまた幸せ

先日、初盆のご縁でお参りさせていただいた時のことです。ご遺族の方から、次のようなお話を聞かせて頂きました。

 「昨年のお盆は、まだ母がいたんだなと思うと、色んなことを思い出して、涙がでてきました。本当にいなくなってしまったんだなと改めて感じました。やっぱり寂しいですね。時間が経っても寂しいです。でも、御住職さんのお勤めを聞きながら、母はお浄土に生まれていったんだなと思いました。先立った父や子どもと、お浄土でまた会えているのかなって。寂しいですけど、母にとっては、昨年、命終わって、お浄土に生まれさせてもらったことは、幸せだったのかなって思います。」

私達は、命終わることを、どのように受け止めていけばよいのでしょうか。一般的には、歳を十分重ねて命終わることを「大往生」と言ったりします。ここでの「大往生」という言葉は、本来、仏教で説いている意味とは違うようです。「十分に人生を生きて、やり残したことはないだろう」というぐらいの意味でしょうか。

しかし、人より長く人生を生きた者のことを、大往生だと讃え、人より短く人生を終えた者のことを、かわいそうだと言うのは、いかがなものでしょうか。それは、結局のところ、長く生き残った者が幸せということでしょう。実際、生き残った者が幸せなのか、死んだ者が幸せなのか、本当のところは、分からないはずです。誰もが死を抱えて生まれてくるのです。死なない命はありません。しかも、誰がいつ死んでも不思議ではないのです。

お釈迦様は、生と死は別のものではないと教えておられます。私達は、生と死とは事実として別のものとしか思えません。生きているということは死んでいないことであり、死んでいるということは生きていないことだからです。それを同じだと受け止めていくのは、私には無理です。真理を悟り仏に成るというのは、やっぱり果てしない世界だと感じます。しかし、ここに、意味という言葉を加えるとどうでしょうか。生と死は別の意味を持っていない、生と死は同じ意味を持っているということです。生きることを、本当に幸せだと受け止めている人は、死んでいくことの中にも大切な意味を受け止めている人ではないでしょうか。死んでいくことは無意味であり、あってはならない不幸だと受け止めている人の人生は、楽しそうに見えても、そこには言い知れない不気味な暗い影がさしていると言わざるをえないでしょう。別のものではないということは、生が死を意味づけ、死が生を意味づけていくということなのです。

古今東西、人々を本当の意味で救ってきた宗教というのは、人生をどのように幸せに生きるかだけを説くものではなく、死んでいく中にも、生きることと同じ尊い意味を与えてきたものだと思います。死の本当の意味を問わない思想は、必ず死んでいく人間を、本当の意味で救う力などないはずです。本来、思い通りにはならないはずの人生の状況に対して、こうすれば幸せになれると、力を入れて教えていく宗教には気をつけるべきです。

仏教の中でも、浄土の教えは、死んでいく中に浄土に生まれるという意味を与えるものです。浄土に生まれるというのは、天国や楽園に生まれるのとは意味が違います。天国や楽園は、煩悩を抱えた人間の欲望が作り出していく世界でしかありません。思い通りになりたいという欲求が描いていく世界だからです。楽園と地獄は、実は紙一重の世界です。飽くなき欲望が、深い苦しみを生んでいくからです。

浄土という世界は、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみに震えていく清らかな仏様が描き出していく世界です。自分が都合よく生きるために生まれていく世界ではありません。自分以外の様々な命を、本当に慈しみ愛する者に成るために生まれていく世界なのです。お浄土で会うというのも、この世界で好きな人と会うのとは違います。仏様の命を恵まれた私が、同じく仏様と成られた尊い方々と敬い合う中で、一つに会わせていただくのです。それは、愛し愛される中に、命が一つに溶け合っていく世界でしょう。あらゆるものが自分の一人子のように愛おしく輝いていく世界です。そんなお浄土に続いている今だからこそ、今の一瞬一瞬も尊いのではないでしょうか。死に続いている今なら、今も死んでいるのと同じです。

今生の別れの寂しさの中にも、死もまた幸せだと味わえる世界が、仏教が教える世界だと思います。清らかな仏様に抱かれ、清らかなお浄土に続く今を、お念仏を申す中に、大切に歩ませていただきましょう。

 

2021年8月31日