理解ができなくても、教えられたことは、まずやってみなさい。

先日、ある御門徒のご法事で、お斎をいただく際、こんなことがありました。お斎というのは、仏事の時に供される食事のことをいいます。最初に、合掌して、みんなで食前の言葉を口にした時のことです。食前の言葉というのは、ご本山で推奨されている「頂きます」のご挨拶です。最初に住職か御当家の当主が「多くのいのちと皆様のおかげにより、この御馳走を恵まれました」と口にします。それに続いて参詣者全員で「深く御恩をよろこび、ありがたくいただきます」と口にするのが、正式な形です。しかし、多くの場合、この食前の言葉を覚えていない方がほとんどで、参詣者全員で口にする箇所も、住職一人で口にし、後の方々は、合掌したまま聞いているだけのことも多いのです。それが、その時は、四十歳代と五十歳代の男性お二人が、後の句をご一緒に口にしてくださったのです。お二人は、御当家の息子さん方ですが、普段は、山口県外でお仕事をされておられ、お寺のご法座でお見掛けしたことは一度もありません。食前の言葉を言い終わった後、お二人がニコニコされながら「覚えてるもんやなぁ」と一言おっしゃったので、どこで覚えたのかをお尋ねしました。すると、お二人とも、正法寺が運営する嘉川保育園の卒園児で、保育園を卒園した後も、中学生になるまで日曜学校に通っていたということでした。子どもの頃、保育園や日曜学校で食事をいただくとき、友達と一緒に合掌して口にしていた言葉が、まだ消えずに残っていたのです。日曜学校を卒業してから四十年以上、口にしていなかった言葉が、自然と口に出たことが、とても懐かしく嬉しいと感慨深くされておられた姿が印象的でした。

昔、仏教を教わったある先生から、こんなことを言われたことがあります。

「理解ができなくても、教えられたことは、まずやってみなさい。やっているうちに、意味が味わえてきます。納得してからやろうと思っている人は、いつまで経ってもすることができません」

若いころ、この言葉を聞いた時には、正直なところ、あまり実感として響きませんでした。しかし、年齢を重ねるにつれ、この言葉の意味するところが、ありがたく味わえるようになってきました。これも如来様のお育てのおかげです。

考えてみますと、世の中には、分からないことや納得のできないことの方が多いのではないでしょうか。世の中は、私の理解できるものばかりで出来ていると思っている人は、とても視野の狭い人かもしれません。どこまでも視野が広がり、どこまでも成長し続ける人というのは、不思議で世界が満たされている人なのではないでしょうか。親鸞聖人や法然聖人のような歴史に名を刻む偉大な宗教者の方々は、お歳を召されても、幼少の時と変わらないキラキラとした驚きや感動をもっておられます。親鸞聖人や法然聖人が遺された言葉は、何百年経過しても、人に感動を与え、目覚めさせていく力を持っています。それは、相手を納得させようとして紡ぎだされた理屈ではなく、ただただ仏智の不思議に驚き感動するキラキラとした心から紡ぎだされたものだからです。

仏教というのは、本来、人の理屈では説明のできない、不思議な事実を教えていくものです。教えの言葉を伝えることはできても、その言葉が伝えようとする不思議に驚き感動していくのは、その人一人一人の感受性の問題です。その人自身が体験しなければ、伝わらない事柄があるのです。

食事を毎日頂くということに、どんな驚きと意味があるのか、それは理屈で理解しても意味がありません。頭の中で理路整然と食事をいただくことの意味を説明できることと、本当に実感として掛け替えのない命を毎日頂いていることへの驚きを持つことは別のことです。その驚きを持った人が、食事の時、どのような事を口にし、どのようなお姿をとられるのか、それを形として教えてくれているのが、合掌して頭を下げ、食前食後の言葉を口にする姿なのでしょう。

手を合わせなさい、頂きますを言いなさい、と教えられた時、「なんでそんなことを・・・」と言う前に、素直にうなづき、教えられたとおりにさせていただく、そのような柔らかく純粋な心が、その人に多くの大切なことを気づかせ、正しい道を開いていくのです。

本当に愛情を持って教えてくださる言葉を疑うことは、大きな罪です。仏様というのは、深い慈しみそのものであり、最も愛情深い働きです。その仏様が教えてくださること一つ一つに素直にうなずいていく中に、自然と真実の歩みが恵まれてくるのでしょう。

2018年12月1日