寺歴史

■ 正法寺と琳聖太子

 仏教が公式にわが国に伝えられたのは、宣化天皇三年(538年)、百済の聖明王が仏像と経典を朝廷に献上した時とされています。
 推古天皇の摂政となった聖徳太子は仏教を重んじ、法隆寺の建立や「三経義疏」の著述などおこなって仏教を保護奨励されました。607年に「17条憲法」を制定し、仏教の理念を基とした新国家の建設をめざされたのです。
 本寺は往時、推古朝(七世紀初め)の頃、朝鮮半島より渡来した百済の琳聖太子の建立の寺といわれています。伝承によれば、琳聖太子は聖徳太子による仏教興隆を助けるために来朝したといわれています。
 記録によると、欽明天皇の御代、百済国の余璋王の第三皇子である琳聖太子は、多くの仏像を奉持し、九州筑前松浦ケ浜に着船され、その後山口に向かわれ、深溝港より上陸されたと伝えられています。
(他に二・三の上陸説もあります)
 この時の仏像を安置するために大伽藍を建立したと伝えられ、後に天台宗の座主慈覚大師より『岩瀧山』と山号を賜ったと伝えられています。

■  大内氏と正法寺

 山口の地に上陸した琳聖太子は大内氏の祖となり、琳聖太子以後、義興・義隆の全盛期に至るまで約900年にわたって大内氏は繁栄し、西国一のにぎわいと文化を誇るまでになり、「西の京都」と呼ばれるようになりました。
 しかし、栄華を誇った大内氏も1551年の8月、陶晴賢の反乱によって滅亡してしまいます。
 その戦いの折、岡屋一帯の城の山が戦場となり、その後も戦場ケ原が激戦地となって多数の討死者が出ましたそれらは正法寺の無縁塚に篤く葬られているといわれています。
 義隆の滅亡と共に大内氏の正統は絶えてしまったのです。
 晴賢に迎えられて、義隆の跡を相続した大内義長ですが、施政6年間の後、陶晴賢に代わって台頭した毛利氏の攻撃を受け、下関の長府の長福寺(今の功山寺)に逃れ自刃しました。
 この義長の子は密かに匿われ、一代目義正、二代目義恒、三代目義豊へと血筋は代々受がれていきます。
 義豊は、遺族として毛利氏からの追及を逃れるため、姓名を伊藤権左衛門と改め岡屋正法寺女と結婚しています。
 その後、石川姓、柳井姓、李家姓に改姓され、その末裔は今日李家姓で東京に在住のようです。
 このようにして大内家の家系を守る役目も果たしています。

■ 天台宗時代の正法寺

 その後、天台宗(開祖・最澄=伝教大師)の寺院として崇敬を受け、天台宗山門派二代目・慈覚大師・円仁より、岩瀧山の山号と、円仁作と伝えられる薬師如来像一体を賜ったという記録もあります。
 当寺は、天台宗の中心的寺院であったと伝えられています。
 しかし、再度の火災にあい、薬師堂のみ残したため、通称「薬師寺」と呼ばれていました。多くの寺宝や仏像「薬師如来座像・弥勒菩薩座像と小仏の弥勒菩薩座像・地蔵菩薩像」の外、古墳一基・御墓一基(琳聖太子の御墓と伝える)・唐絵(琳聖太子当時の絵)等があったと伝えられていますが、記録と共に焼失しました。

■ 教善法師500回忌を迎えるにあたって

 浄土真宗の寺院になったのは、当寺の中興の祖の教善(1457年~1501年)の時代です。
 文明8年(1476年)に上洛し、本願8代門主蓮如上人の教化に遇い、教善の法名を賜り、浄土真宗に帰依し、この地に帰るや浄土真宗の法義弘通に努め、浄土真宗正法寺の基を築かれたのです。
 阿弥陀仏の救いのまえには男女を問わず、職業や身分にかかわりなくすべて平等で『同朋同行』であり、必ず救われるという教えは、当時の飢饉や争乱の続く社会情勢の中で、生きる光明として民衆の心をとらえ、念仏の道場として正法寺が発展したことでしよう。
 このように、正法寺に浄土真宗を開基された教善法師から現在まで500年を経て、18代にわたり脈々と法義が受け継がれ今日の私たちに届けられているのです。
 その後、天台宗時代の経典は、四世明教法師の時、今津山の山頂に納めたといわれています。先年まで山頂には、経塚の松(別名一本松)という老松がありましたが、今は枯れて形跡もありません。なお、経石は秋穂浦の沖に浮かぶ竹島より取り寄せた某石と伝えられています。

■ 一教善

 右俗名少年の時は左門と申候、長禄元年丁丑生、豊前の国小倉の内今井村浄慶寺と申寺、本寺ニて御座候故渡海被仕、此僧被致剃髪法名を教善と付被申候、京都本山東西え分れ候時分、浄慶寺は東方へ付被申故正法寺も東方ニて候得共、当国殿様より興門跡え為御馳走、防長不残西本願寺え相成候様ニと被仰渡、御国法難相背西本願寺え相成、浄慶寺え不参仕、唯今迄西方二て罷居申候、教善は文亀元辛酉年四月五日二四拾五歳ニて死去仕候
(防長寺社由来第四巻より)

■ 寺歴年表

出典 三大法要厳修記念 法録 2003/05