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平成20年7月
 昨年のことです。ある御門徒の方のお葬式がありました。そのお礼参りでのことです。故人がご往生されるその三日ほど前のことを、義理の妹さんがお話くださいました。
 「故人は、生前、お寺様に本当にお世話になりました。晩年は、歳を重ね、体が不自由になりお寺様にお参りできなくなりましたが、元気なときは、ご法座があるごとにお参りをし、お聴聞しておりました。最後は、病院の病室で亡くなりましたが、時々、病室のベッドの上で聖典を開いては、お勤めをしたり、書いてあることを味わったりしていました。ちょうど亡くなる三日ほど前にも、私と二人で、病室のベッドの上にすわり、聖典を開いて『領解文』を声に出して一緒に読んだんですよ。指で字を追いながら、ほとんど私が読んであげるという形でしたが、とても喜んでおりました。」
この故人の方は、九十歳を超える女性の方でしたが、なんとも有り難いお方だなぁと、しみじみとお話を聞かせていただいたことでした。

『領解文(りょうげもん)』というのは、本願寺第八代宗主の蓮如上人が、「浄土真宗の信仰とは、このように理解し、告白することですよ。また、その信仰から営まれる生活態度とは、このようなものですよ」ということを、当時の言葉で分かりやすく遺してくださったものです。ご法座の最後に参詣者全員で口にする「もろもろの雑行雑修、自力の心をふりすてて・・・」という一節ではじまる、あれです。
 ここにおいて、すべてを味わい尽くすことはできませんが、はじめの一説に、この『領解文』を総括する、浄土真宗において最も大切な事柄が述べられています。
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。」
 この一説で、その基本となるものは、「われらが今度の一大事の後生」という感性です。死を日常の中から遠ざけている現代人には、この感性が薄らいでいるかも知れません。「後生」というのは、文字通り「人生終えた後」つまり、「死ねばどうなるのか」という問題です。そして、この問題が、私どもにとって一大事であるというのです。なぜならば、私どもは、今即座に死が訪れても何の不思議でもない身でありながら、死に対する本当の落ち着いた安心を得ていないからです。この一大事は、私どもが、自らの心をどのように傾け、どのように行動しようが、決して解決しようのない問題です。そのことを「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」と述べられているのです。この一大事は、私自身の思いはからいを捨て、阿弥陀如来に「御たすけ候へとたのむ」こと以外に解決の道はないことを端的に示されたのが、この一節の要旨です。
 ここでよく誤解されることですが、「御たすけ候へとたのむ」ということは、阿弥陀如来に「助けてくださいとお願いする」という意味ではありません。「助けてくださいとお願いする」ことは、私の思いはからいの何者でもありません。私どもの願いは、ギリギリのところになると、他人を蹴落としてでも自分だけは助かりたいという、どこか手垢のついた薄汚れた思いでしかありません。そのような心が描く世界は、どこまでいっても迷いであり、悟りでは決してないのです。「御たすけ候へとたのむ」というのは、先に阿弥陀如来の「必ず助ける」という誓いがあり、その如来の仰せが心に響いた時、素直に「左様ならばお助け下さいとまかせる」ことを意味しているのです。

 何十年生き続けても、如来の仰せが響かない人には、本当の安心はありません。本当の喜びは、如来の仰せが響くところにあるのです。
 九十歳を過ぎ、人生の幕がそろそろ閉じようかという時、身近な家族と一緒に如来の仰せを味わい喜んでおられるお姿は、本当の喜びとはどんなものであるのかを私共に示してくださるものです。何十年生きても、喜べる人生でありたいものです。
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