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平成21年3月
 先日、ある御門徒の一周忌のご法事にお参りさせて頂いた時のことです。その御門徒の奥様は、大変、ご法義に厚い方です。しかし、ご主人をお浄土に見送られてからの一年は、体調を崩され、ご法座にお参りすることが叶わない時期もありました。「奥様の体調は、大丈夫かなぁ」そんな心配を抱きながら、この度もお参りさせていただきました。
 お勤めとご法話が済み、順次、お焼香をしていただく時になりました。まず、奥様がお焼香をされました。娘さんに付き添われて、おぼつかない足取りではありましたが、お仏壇の前に座り、合掌しお念仏申されるお姿は、ご法義にあふれた柔和な薫りが満ちておりました。その後、また娘さんに付き添われてご自分の場所までお帰りになり、椅子に両手をつき、何とか椅子に腰を下ろされました。「やはり、昨年に比べると、お体は弱られているなぁ」そんな感想を持ちました。
 しかし、順次、ご親戚の方々が、お焼香をされていくのを、椅子に腰をかけられ、表情を変えずに見つめておられた時です。そのままの姿勢、そのままの表情で、突然、一言、次のように言葉を発せられたのです。
「皆さん、お念仏を申してください」
 何気ないたった一言の言葉でしたが、その言葉を聞いた瞬間に、私の胸が熱くなっていくのを感じました。それと同時に、「この方は、何があっても大丈夫だな」という安心も訪れたのです。
 「お念仏を申してください」この一言は、簡単なようで、いざ口にしようとすると、なかなか言えないものです。特に、ハナからお念仏など申す気のない方には、刺々しく聞こえるかもしれません。俗っぽく言い換えますと、この一言は、念仏という、一つの宗教を他者に押し売りしているようにも聞こえてしまうものです。しかし、奥様の一言には、自己主張のような我執が一切混じっていない澄み切った響きがありました。「ただ口にお念仏申しなさい」と言われた法然聖人や親鸞聖人も、このような響きをもって、人々に語りかけていたのではないかと思うのです。
おそらく、ご主人のご法事にお参りしてくださった多くの方々が、お仏壇の前に正座し合掌しながら、黙ってその場を離れていく光景は、なんとも寂しい想いがされたのではないでしょうか。蓮如上人の有名なエピソードの一つに次のものがあります。
「前々住上人(蓮如上人)、御口のうち御煩ひ候ふに、をりふし御目をふさがれ、ああ、と仰せられ候ふ。人の信なきことを思ふことは、身をきりさくやうにかなしきよと仰せられ候ふよしに候ふ。」
 蓮如上人が、或る時、目をふさがれて「ああ・・」とうめくように声を漏らされたことがあった。その時に、お側におられた方が、心配してお尋ねすると、「人が信心をいただいていないことを思うと、身が切り裂かれるように悲しい」と仰せられたというのです。
 時に、浄土真宗が誤解されるものの一つに、「浄土真宗は戒律もない、修行もない、念仏さえ称えていれば何をしていてもいい」といった具合のものがあります。しかし、これは、本当にとんでもない誤解です。浄土真宗は、仏教で否定している煩悩を肯定し、人間の欲望を許していくような毒にまみれた宗教では、決してありません。煩悩の海の中でしか生きていけず、しかも、それが毒であることも知ることができずに苦しみもがいている。そんな人間に煩悩や欲望の浅ましさや恐ろしさをまざまざと知らせ、それと同時に、煩悩や欲望が微塵も混じらない澄み切った心でその人を包み込み安心させていく。そんな働きが、親鸞聖人が浄土真宗と名付けられた阿弥陀如来の救いの姿なのです。
 自分だけよければそれでいい、というのは、煩悩が形をとった典型的な姿です。阿弥陀様の親心に遇わせていただき、この身に本当の安心をいただいて、命の幸せを本当に知った人は、阿弥陀様の親心に気づかずに地獄に堕ちていく人を放っておけないのではないでしょうか。阿弥陀様のお慈悲の薫りをその身にまとい、お願いだから阿弥陀様の親心に気づいてほしいと人を慈しみ悲しんでいく姿が、本当の念仏者の姿なのでしょう。
 「皆さん、お念仏申してください」
この一言の響きの中には、蓮如上人の「ああ・・」と漏らされた悲しみと、ご自身の味わいの上からもたらされる、阿弥陀様に対する親しみ敬う心とが一緒になって、私の胸に染み入ってきました。住職自身、大変ありがたいお取次ぎをいただいたご法事でした。
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