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平成24年9月
 先日、お盆のお勤めの際、ある御門徒の方から、次のようなご質問をいただきました。
 「私は、長年、お聴聞してきましたが、なかなか信心というものが、はっきりしません。蓮如上人が、再三、信心ということをおっしゃっています。十八願を心得ることなどが説かれていますが、信心をいただくとは、どういうことでしょうか。」
 普通、何かを信じようとするとき、私たちは、まず自分で確かめて納得しようとします。このように自分で真偽のほどを確かめた上で信じることを「確信」というのです。それに対して、自分で真偽のほどを確かめようともせず、言われるままに思い込んでいくことを「妄信」といいます。だいたい、宗教全般で、信心といえば、この「確信」と「妄信」の二つのどちらかではないでしょうか。
 浄土真宗においても、最も大切なのは、この信心ですが、親鸞聖人が明らかにされた信心とは、「確信」でも「妄信」でもないところに、浄土真宗の難しさがあります。「確信」でも「妄信」でもない信心なんて、普通は想像できないはずです。自分で確かめて納得するのも間違い、教えられるままに思い込んでいくのも間違い、というのであれば、私たちは、何をどのように信じればよいのでしょうか。
 親鸞聖人は、信心について、主著の『教行信証』を初め、あらゆるお書物の中で、詳しく分析し、それが何であるのかを導き明らかにしておられます。その中で信心とは、「真実心」であることを明らかにされています。「信」を「まこと」とも読みますが、これは、「真」と同じ意味を表しています。ただ、「信」の方は、「人の言葉」について「まこと」であることを表しているのです。「信心」というものが、本来、「うそ、いつわりのない真の心」を表しているならば、「確信」も「妄信」も「うそ、いつわりのない清らかな真実心」でなければなりません。親鸞聖人が、確信や妄信のような世間でいう信心は、本当の信心ではないとして退けられた理由はここにあります。つまり、私が真偽のほどを確かめて納得した上で得た確信も、人から教えられるままに思い込んでいる妄信も、嘘や偽りが必ず混じっているというのです。「真実」というのは、揺らぐことも壊れることも決してない安定したもののことを言います。どんなに固い確信でも、どんなに純粋な妄信でも、揺らいだり壊れたりしていきます。なぜなら、それらは、無常の世界に生きる人間境涯が作り出したものだからです。時代や生活環境等が変われば、心も様々に変わっていきます。人の心は、変わっていくのです。
 親鸞聖人は、本当の信心とは、阿弥陀如来の大悲心であることを明らかにされています。「あなたを必ず仏にしたい」という阿弥陀如来の願いは、どんなに時を経ても、私がどんな風に変わろうとも、決して揺らぐことも壊れることもありません。浄土真宗で信心というのは、如来の心をいうのであって、決して私の心をいうのではないのです。私の心の中を探しても、信心というのは見つかりません。
 親鸞聖人は、私において信心ということがあるとすれば、それは、聞こえていることだと言われています。「お前を必ず助ける、仏にする」という如来様の言葉が、そのまま聞こえていることが本当の信心です。言葉は、心が形となって現れ出たものです。如来様の言葉をそのまま聞くことは、如来様の心をそのまま頂くことでもあるのです。妙好人の三河のおそのさんは、「私に領解はなんにもない。一生の間、ただ無駄骨おっただけじゃわいのう」と晩年、病床において喜んでおられたそうです。そして、「私は、参らせてやろうの仰せの外に後も先もぞんじませぬ」といつも言われていたそうです。
 私が作り上げる信心は、生死の問題の前においては、何の役にも立ちません。まさしく無駄骨です。しかし、それが無駄骨であることを喜べる世界があるのです。如来様は、こうでならなければならないとは、おっしゃいません。ただ、「お前を必ず仏にするぞ、浄土につれてゆくぞ。」と仰せになるばかりです。それを聞いて、ありがたいことだなと受け止める外に特別なことは何もないのです。如来様が、大丈夫だと言われるから大丈夫なのです。お念仏を聞かせていただく中に、そのまま安心させていただきましょう。
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