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平成25年7月
 先日、保育園で巣を作っていたツバメのヒナが、蛇に食べられるという出来事がありました。壁を這い上がった蛇が、巣の中で泣くヒナに容赦なく食らいつく残酷な現場は、そこに居合わせた子ども達にとって、大変な衝撃を与えるものでした。蛇を悪者に、ツバメをかわいそうな被害者にして片付けてしまうのは、分かりやすくて簡単ですが、それだけで終わらせてはならない問題がここにはあります。朝のお勤めの時、如来様のお心の中で、子ども達と一緒に、この出来事を大切に受け止めさせていただいたことでした。
 他の命を奪うという行為は、私達も毎日、行っています。奪わなければ、自分が生きるということはできません。個の命は、多の命によって成り立っているのです。しかし、お釈迦様は、他の命を奪うという行為を厳しく戒められました。仏教で説かれる殺生戒がそれです。お釈迦様のお食事は、朝の一食だけでした。しかも、たくさんは、いただかれません。その日、一日だけしのげる物を、托鉢によって口にされていたのです。次の日の分までは、決して口にはされませんでした。一日、一日が、命の完結であるような生き方をされたのが、お釈迦様でした。また、自分の命を粗末にすることも厳しく戒められています。その日、他の命から頂いた命は、決して無駄にすることなく、仏道を歩む糧とさせていただくのです。仏道の完成は、一切の命の悲しみ、苦しみを引き受け、一切の命を目覚めさせ、一切の命を悟りの境地へ落ち着かせるところにあります。他から頂いた命は、一切の命の幸せの糧へとなっていくのです。
 しかし、これは、誰もが成しうるものではありませんでした。仏教では、実際に行動に移さなくても、心の中で思ったこと自体が、罪と見なされます。例えば、空腹時に、あるお家から、夕食のおいしそうな香りがしてくる時、ふと心の中に、食べたいという欲求が起こっただけでも、戒律を破ったことになるのです。仏教の戒律というのは、それを純粋に守っていこうとする真面目な人ほど、守ることが出来ない自分の浅はかな罪深い姿に絶望していくものなのです。
 親鸞聖人もそのお一人でした。親鸞聖人は、ご自身を「無戒の者」と位置付けていらっしゃいます。破戒というのは、戒律を保てる者が、それを破ることですが、無戒というのは、本来、どんな簡単な戒律も保つことのできない最低の罪人のことをいいます。親鸞聖人は、二十年の比叡山での御修行の中、「無戒の者」という絶望的な自覚を深めていかれたのでした。しかし、無戒の者だからだと言って、好きなように振る舞ったわけではありません。地獄にしか落ちようのない無戒の者まで、決して見捨ててくださらない阿弥陀如来のお慈悲を、絶望の中仰がれ、そのお心に育てられ続ける日々を大切に歩まれたのでした。
 親鸞聖人は、その主著『教行信証』の中で、善導大師の次のお言葉を大切に引用されていらっしゃいます。
 「内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ」
 私達は、善人のように振る舞っていても、心の内には偽りを抱き、貪り・怒り・よこしま・欺きの心が絶えず起こって、それは、まるで蛇やサソリのようであるというのです。もし、貪りや怒りの心を起こし、他の命を傷つけながら、それを何とも感じずに繰り返すばかりであるなら、それは、まさしく蛇やサソリと何ら変わる所はありません。親鸞聖人は、『教行信証』の中で、「無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす」という『涅槃経』のお言葉も大切に引用されていらっしゃいます。欲望のままに振る舞い、それを恥ずかしいとも感じないものは、人ではないというのです。同じく他の命を奪わなければ生きてゆけない人と蛇ですが、大きな違いはここにあります。蛇は、まさしく欲望のままに振る舞うだけで、ツバメの悲しみも絶望も感じることは決してないでしょう。しかし、蛇のような人間も案外多いのではないでしょうか。奪わなくてもよいものまで奪い、味を楽しみ、欲求を満たすだけの食事をする人は、人としての生涯は送っていないということでしょう。
 他の命を頂くことの重みを知り、その命を無駄にしない生き方とは何であるのかを、如来様のお心の中に大切に聞かせていただきましょう。


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