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平成25年9月
  7月30日から31日にかけて、山口南組児童念仏奉仕団が組織され、山口南組十四ヶ寺に所属する四年生から六年生までの小学生十四名が、ご本山本願寺にお参りをいたしました。その内、正法寺からは、八名の子ども達が参加してくれました。ご本山の児童念仏奉仕団は、毎年、夏休み前半の7月20日頃から8月上旬の二週間程度の間に行われます。山口南組が参加した二日間は、400名以上の子ども達が、全国から集まっていました。御影堂の畳や広縁の拭き掃除、境内の草引きなどの奉仕作業に加えて、レクリエーションやゲームなどの楽しい内容も目白押しです。もちろん、阿弥陀堂、御影堂での朝のお勤めや御法話をお聴聞するご縁も用意されています。ご本山を中心とした京都での二日間は、子ども達にとって、忘れることのできない思い出になったことと思います。
 以前、ある御門徒のご法事にお参りさせていただいた時、お斎の席で御親戚の方から、「お経には、何が書いてあるのですか?これが分かったら仏教が信じられるのですが、分からないものは信じようがありません。」といったお話をいただいたことがありました。これは、もっともなお話だと思います。意味の分からないものを信じるというのは、通常、無理なことでしょう。
 親鸞聖人が、初めて明らかにされた仏教の教説の一つに、この「信じる」ということがあります。浄土真宗とその他の仏教宗派との明確な違いの一つは、この「信心」にあります。親鸞聖人は、「信心」とは、お悟りを開かれた仏様だけが起こす真実の心と解釈されました。純粋に仏に帰依し、教えに帰依していく清らかな心は、仏様のみが起こすことのできる真実心と見抜いていかれたのです。そして、私のような凡夫には、到底起こすことのできない心として、信心というものを味わっていかれました。これは、本来、私には、仏教を信じる能力がないということを意味します。自己中心の妄念の中、損か得、好きか嫌いかの世界に振り回される凡夫には、仏様の清らかな世界を信じることができないというのです。お浄土や仏様が分からない、信じられないというのは、親鸞聖人にとっては、悲しい凡夫の現実として捉えられています。
 それでは、そのままでいいのかというと、私をそのままでは終わらせない働きがあるというのです。それが、阿弥陀如来の根本の願いの力、本願力だと親鸞聖人はお示しくださいます。本来、信じることが出来ないどころか、仏様の世界に見向きもしない者が、仏様の尊前に座り、手を合わせている、また、「南無阿弥陀仏」と如来の御名を口にするようになるというのは、不思議なことです。本来、不可能なものが、可能になる。それは、不可能を可能にした働きがあるのだと、親鸞聖人は、味わっていかれたのです。この私を決して捨てておかない阿弥陀如来のお慈悲の深い働きが、仏様やお浄土がましますことを知らせ、信じさせていくのです。それを、親鸞聖人は、「如来より賜りたる信心」とおっしゃっています。
 仏法を何度聞いても、ザルで水をすくうように、頭の中に何も残らないことを悩んでおられた御門徒に対して、蓮如上人は、「その篭を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」とおっしゃっています。「そのザルごと水の中にひたしてしまいなさい」とのお示しです。我がはからいを捨てて、素直にどっぷりと如来様のお心に身をひたしていると、いつの間にか、如来様のおっしゃる世界がまことであり、お浄土がましますことが頷けるような身に育てられていくのでしょう。
 この度、14名の子ども達を引率し、ご本山にお参りさせていただいた時、その如来様の働きを、改めて味わせていただいた気がいたしました。子どもの素晴らしいところは、その純粋さにあると思います。何も分からなくても、言われるままに手を合わせ、言われるままに「南無阿弥陀仏」と口にできるのです。この素直さは、必ず尊い仏縁になっていくものと思います。仏教というのは、納得してからスタートするものではありません。仏様のお心は、掴もうとすればするほど、私から離れていってしまいます。分からないまま手を合わせるところに、如来様の願いは働いていてくださるのです。何も分からなくても、素直にどっぷりとお法に身をひたしていける、子どものような心を大切にしていきたいです。


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