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平成26年4月
 先日、ある御門徒のご法事の折、御親戚としてお参りされておられた御門徒の奥様と次のような会話をさせていただきました。
奥様 「御院家様、お久しゅうございます。」
住職 「お元気でお過ごしでいらっしゃいましたか?先日の御正忌報恩講には、息子さん御夫婦が、お参りしてくださってましたね。」
奥様 「私は、足腰が弱ってしまって、お寺にお参りしにくくなってしまいました。御正忌報恩講の時には、私達夫婦が、お参りすることが難しくなったので、息子夫婦にお参りしてくれるように頼みました。すると、素直に『いいよ』と言ってくれました。それが、何より有難くて、うれしいことでした。」
 お経には、仏様のみ教えを聞くことの難しさが、所々に記されています。これは、み教え自体の難しさを言っているのではありません。人にとって、仏様のみ教えを聞くということが、難しいと言われているのです。仏様のみ教えを聞こうとする人は、稀です。なぜなら、多くの人は、自分が正しいと思っているからです。教えられる必要のない人は、当然、教えを聞こうとはしませんし、仏様に手を合わせたり、お寺にお参りする意味も分からないでしょう。お経には、「稀有人」「妙好人」「最勝人」「上上人」など、仏様のみ教えを聞き受け、喜ぶ人々を褒め讃える言葉がたくさん記されています。それほど、仏教を聞くことは難しい事であり、聞くことのできる人は、尊い人なのでしょう。
 そもそも、仏教の上から味わいますと、世の中に宗教を持たない人は、存在しません。それは、どんな人であっても、御本尊と呼ぶべきものを持ち合わせているからです。御本尊というのは、「根本的に尊いもの」という意味です。つまり、その人にとって、最も大切で尊ぶべきものを、御本尊と呼ぶのです。どんな人であっても、大切に尊んでいるものがあるはずです。多くの場合、それが、自分自身になっています。自分の願望を叶える最も有効な手段が、お金であれば、お金が儲かることが、どんなことでも正しいことになっていきます。また、地位や名誉が、自分を守る大切なものであるならば、自分の地位や名誉を得るためにすることは、どんなことでも正しいことになります。人は、自分自身を御本尊とし、その自分を守るものを大切にし、そうでないものを邪見にしていきます。このように、その人の考え方や生き方を定めていくものを、御本尊と呼び、その意味では、誰もが、宗教的であると言えるのです。
 そのような中で、仏教というのは、仏様を御本尊とすることを教えていきます。また、仏様を御本尊とすることが、最も幸せな生き方であることを教えようとしているのです。自分を御本尊としている普通の人は、その生き方に疑問を持つことは、ほとんどないでしょう。しかし、中には、その生き方、有り方に疑問を持つ方々がいらっしゃるのです。生きていくことが出来ない、また、このままでは、死んでも死にきれないという人生の局面にぶつかる人々にとって、自分という御本尊は、その局面の前に、脆く打ち砕かれていく弱いものでしかありません。
 私達のご先祖は、阿弥陀如来を御本尊とする浄土真宗というみ教えを、伝え遺してくださいました。それは、他の命の悲しみを引き受け、自分の幸せを、他の命に代わり与えていくという、深いお慈悲の心を御本尊とし、そのお心を最も大切にする生き方です。私達は、自分を大切にしますが、その自分が、どれほどの恵みの中に生かされてあるかを見ようとはしません。その恵みに心が向かない限り、本当の幸せを感じることは出来ないのではないでしょうか。自分の我欲を満たすことにのみ命をすり減らし、自分がどれほど深く愛されている命であるのかを感じることが出来ずに死んでいくというのは、不幸な人としか言いようがありません。
 浄土真宗のみ教えを伝え遺してくださったご先祖の方々は、子孫の私達の本当の幸せを願ってくださったのではないでしょうか。子や孫に、本当に幸せな生き方を伝え遺していくことを、人生の喜びとしてゆける私達でありたいものです。
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