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平成26年8月
 先日、第16回山口教区仏教讃歌の集いが、本願寺山口別院を会場にして、正法寺のコール芬陀利華のお引き受けで開催されました。今年は、地元でのお引き受けということもあり、初めて、日曜学校の子ども達にも参加してもらい、大人と子どもが一緒に仏教讃歌を歌うことができました。披露した曲目は、「のんのさま」という曲と、親鸞聖人の『歎異抄』のお言葉に歌手のちひろさんが曲をつけた「ただ念仏して」という曲です。歌というのは、歌詞の意味が分からなくても、音楽に乗って、その言葉の持つ力が胸に響いてくるものです。仏事の時にお勤めするお経も、本来は、仏様のお言葉に曲をつけて奏でる宗教歌と言っていいでしょう。
 お釈迦様が御入滅され、しばらく経った頃、インドの僧侶数人が、お釈迦様のお言葉に曲をつけて、歌を奏でていました。その歌声の美しさに動物の象までが立ち止まって、動けなくなったという話があります。音楽というのは、人の心が奏でるものであり、理屈では表現し尽くすことのできない宗教的世界が、それによって見事に表現されていきます。この度、コール芬陀利華が歌わせていただいた「ただ念仏して」という曲も、「ただ念仏して」という言葉の意味が分からなくても、子どもの声に乗って、大人の声に乗って、親鸞聖人が経験された宗教的世界が、万人の胸に染み込んでくるようでした。
 この「ただ念仏して」という言葉は、親鸞聖人が晩年、お弟子の唯円房に語られた浄土真宗の真髄といえるものです。『歎異抄』には、次のように記されています。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」
ただお念仏して阿弥陀如来に助けていただきなさいと教えてくださった法然聖人の言葉を信じているだけで、それ以外に詳しい特別なことは何もないとおっしゃいます。とても単純で簡単なことですが、しかし、この単純な言葉の中に、無限の意味が広がっているのです。
 私達は、「ただ念仏しなさい」と言われて、本当に素直に「ただ念仏」できるでしょうか。人は、自分が正しいと思っていることにそぐわないものを、素直に受け入れるということができません。自分の理屈に合わなければ、受け入れることが出来ないのです。
 これを仏教では、自力といいます。親鸞聖人は、九歳から二十九歳に至るまでの実に二十年の長きにわたって、この自力の道を歩まれました。自分の力を信じ、自分の能力を頼りにし、生と死に惑う在り方を超え、仏の悟りの境地を目指されました。それは、正に人生そのものをかけた壮絶な日々でした。ここでは、詳しく記すことはできませんが、自力の修行というのは、自分の命すべてをかけて行う、命がけのものなのです。そして、二十年の修行の末、親鸞聖人に訪れたのは、自力に対する絶望だったのです。自分に絶望した人間は、普通、それ以上、生きることはできません。自分を信じることが出来ない人間は、生きることなど出来ないのです。しかし、死ぬこともできません。本当に自分に絶望した人間は、死ぬに死にきれないところがあるのです。死んで解決できる問題なら、初めから命を懸けた修行などしません。生きることも死にきることもできないのが、親鸞聖人が味わった絶望でした。
 そんな状況で、親鸞聖人の前に立ち現われてきたのが、「ただ念仏して」という他力の世界だったのです。他力の世界というのは、自力が尽きたところに立ち現われてくるものなのです。自力と他力とを比べて、他力を選んだのではないのです。自分に絶望した人間だから、「ただ念仏して…」という如来様の純粋無垢なお心が響いたのです。
 「ただ念仏して」という法然聖人から頂いた言葉には、如来様の慈愛が満ち満ちていました。そして、その言葉は、自分に絶望した凍てついた心を溶かし、如来様の慈愛に包まれた新しい意味を持った人生が開かれていく言葉だったのです。
 先日のコーラスでは、親鸞聖人が味わわれた救いの感動と如来様の慈愛に満ちた響きが、「ただ念仏して」という音楽に乗って、万人の胸に染み込んでくるような素晴らしさでした。
 様々なところに、仏縁は用意されています。頂いた仏縁を、素直に喜べる毎日を過ごさせていただきましょう。

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