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平成26年11月
  先日、ある御門徒のご法事の折、次のようなご質問をいただきました。
「近くの真言宗のお寺に『無量寿』と書かれた額があるのですが、あれは、どういう意味なんでしょうか?そこのお寺の総代さんや寺族の方も、よく分からないと言われるのです。帰って聖典を開くと、浄土真宗の聖典にも、たくさん『無量寿』という言葉がありますね。どういう意味なんでしょう?」
 「無量」という言葉は、直訳すると「量ることができない」という意味になりますが、これは、「限りがない」という意味です。「寿」という言葉は、「寿命」という言葉があるように、「いのち」という意味です。ですから、「無量寿」というのは、直訳すると「限りない命」ということになります。
 浄土真宗の聖典の中に、この言葉がよく出てくるのは、阿弥陀如来の別名が無量寿如来だからです。浄土真宗門徒が最もよくお勤めするのが、親鸞聖人が『教行信証』の中でお作りになられ、蓮如上人が、日常的にお勤めできるように制定された「正信念仏偈」、略して「正信偈」です。この「正信偈」の一句目に「帰命無量寿如来」とあるのも阿弥陀如来のことを意味しています。浄土真宗では、阿弥陀如来は、御本尊です。私達が、最も尊ぶべき姿が阿弥陀如来のお姿であり、この阿弥陀如来一仏の働きによって、往生浄土の道が恵まれていくのです。一方、真言宗の御本尊は大日如来ですが、阿弥陀如来も尊ぶべき五大如来の一つとされ、大日如来を中心として、五つの悟りの領域を表すものとして位置づけられています。
 阿弥陀如来に別名があるというのは、「阿弥陀如来」という言葉が、サンスクリット語の音写だからです。音写というのは、発音をそのまま写したということです。中国に元からないものは、それを表す中国語も元からありません。例えば、アメリカで作られたコカコーラという飲み物は、中国には元からなかったものです。ですから、コカコーラとしか表すことができません。しかし、中国には、平仮名もカタカナもありませんから、コカコーラという発音を漢字に写すしかないのです。中国では、コカコーラを「可口可楽」と書くそうです。「可口」は「美味」、「可楽」は「楽しめる」という意味もあるそうですが、中国人の工夫が感じられます。サンスクリット語やパーリー語の経典をインドから持ち帰り、中国語に訳すときにも、様々な工夫がなされたのです。コカコーラ程度のものでしたら、おおよその意味が分かれば問題はありませんが、仏語が記された経典の言葉は、そういうわけにはいきません。仏様が、その言葉によって開こうとされる悟りの領域を、別の言葉で表し直すというのは、私達が考えている以上に大変なことなのです。
 阿弥陀如来という言葉は、お釈迦様の言葉の響きをそのまま残したものです。漢字そのものに意味は込められていません。それに対して、阿弥陀如来という言葉の響きが持つ意味を、漢字が持つ意味で表そうとされた一つが、「無量寿如来」なのです。
 法然聖人は、阿弥陀如来が「限りない命の仏様」であるのは、大慈悲の現れであることを教えておられます。「限りない命」と聞くと、死なない命が単独であり続けているように想像しますが、そうではありません。「限りない命の仏様」というのは、その仏様にとって見捨てることのできない、慈しみ悲しむべき命が限りなくあるからなのです。阿弥陀如来が願う生きとし生けるものの安らぎは、過去・現在・未来という時間を超越しています。阿弥陀如来のお慈悲の働きに終わりはありません。あらゆる命の悲しみや苦しみを限りなく背負い続けていくのです。 
 私達は、自分一人の悲しみでさえ背負いきれなくなる時があります。また、それによって、自分の人生でさえ見捨てようとすることもあります。仏様というのは、そんな自分ですら抱えきれない苦悩を背負った数限りない迷いの命を、限りなく慈しみ愛し続けていく働きをいうのです。自らが、他人のために地獄の底に沈んでいき、他人の幸せの為に限りなく働き続ける純粋な命の姿が、「無量寿」という言葉で表されています。
 仏教の永い伝統の中で大切にされてきた言葉には、私達を導く深い意味が込められています。大切に味わわせていただきましょう。
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