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平成27年1月
 明けまして、おめでとうございます。今年も、御門徒の皆様と共にお念仏に薫る温かい日々を大切に過ごさせていただきたいと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
 さて、今年も正法寺では、様々なご法座のご縁が用意されています。浄土真宗は、ご法話を聞かせていただく「お聴聞(ちょうもん)」が何より大切です。お聴聞することを通して、仏様とお出遇いさせていただくからです。仏様というのは、頭の中で想像するものではありません。また、いるか、いないかを詮索するものでもありません。この掛け替えのない人生の中で、はっきりとお出遇いさせていただくものなのです。仏様というと、仏像のようなお姿を想像しますが、お出遇いするといっても、そのような姿に出遇うということではありません。単なる姿に出遇っても意味はありません。仏様とは、心であり、言葉であり、働きです。人には起こすことのできない純粋な心というものが存在するのです。人には決して紡ぎだすことのできない純粋な言葉というものが存在するのです。仏様にお出遇いするというのは、頭を下げずにはおれない尊い心や言葉に出遇っていくということです。この仏様とお出遇いすることを、親鸞聖人は「信心」とおっしゃったのです。そして、この信心こそ、私自身の救いが確立される最も要になるものであることを教えておられます。この人生において、頭を下げずにはおれないほどの尊さに出遇わなければ、本当の安心は得られないということでしょう。人生は、虚しく過ぎてゆくだけです。
 その信心をいただく、仏様の働きに出遇っていくには、ただただお聴聞していくしかありません。この娑婆世界の中にあって、お聴聞し、仏様にお出遇いしていく唯一の場が、お寺なのです。浄土真宗のお寺の存在意義は、ここにこそあるのです。
 正法寺の御門徒の中には、御夫婦そろって、ご法座にお参りされる方も何組かいらっしゃいます。大変、幸せなことです。その御夫婦でよくお参りくださる方の中で、以前、次のような感想をお話下さった方がおられました。
 「御院家さん、お聴聞というのは、難しいものですね。私のところは、よく家内と二人でお参りさせていただくのですが、ご法座が終わって家に帰った後、家内と今日聞いたご法話の話によくなるのです。すると、同じ話を聞いてきたはずなのに、夫婦で感じ方も聞き方も全く違うんです。私が、今日の御法座での感想を家内に話すと、家内から、思いもしなかった感想が返ってくることがあります。夫婦二人で話していると、お互いの感じ方に感心させられることがよくあって、おもしろいものだなと思います。」
 本願寺第八代の御門主で、浄土真宗中興の祖とも讃えられる蓮如上人は、お聴聞した後、黙っているのはよくないと教えておられます。お聴聞し、自分自身受け止めた気持ちを、口に出して話すことを、とても大事にされました。蓮如上人の伝道活動で特徴的だったのは、地域の中に講(こう)とよばれる集会を作らせて、そこで、自分の仏教に対する感じ方、受け止め方を自由に語り合えるようにしたことでした。当時の人々は、自分がお聴聞し感じたことを、講という場で、自由に告白し、それを人に聞いてもらい、時に受け止め方の過ち等を指摘されることで、自分自身の味わいを深めていったのです。また、正直な気持ちをお互いに語り合うことで、同じ阿弥陀如来のお心を頂くお念仏者としての絆も深められたことでしょう。
 お聴聞させていただくことが、自分の独りよがりに終わっていくことは、本当にもったいないことです。阿弥陀如来の働きに出遇っていくということは、人生における掛け替えのない喜びに出遇っていくということでもあるはずです。うれしいことは、黙っていられないはずです。喜びを語り合う場には、明るさが満ちていくものです。浄土真宗のお寺は、本来、とても明るさが満ちている場所なのです。
 お念仏の道は、一人で寂しく歩む難しい道ではありません。みんなで一緒に、明るさに包まれながらお浄土への道を歩ませていただくのです。お寺は、本当の仲間に出遇う場でもあるのです。
 今年も、たくさんのお参りをお待ちしております。

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