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平成28年1月
 明けまして、おめでとうございます。本年もお念仏薫る中で、一日一日を味わい深く過ごさせていただきましょう。
 さて、先日、ある御門徒宅で定期的に開かれている家庭法座でお取次ぎさせていただいた時、弥勒菩薩のことについて、少し触れさせていただきました。弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、お釈迦様の入滅後(人としての命が終わった後)、五十六億七千万年後の未来に仏となってこの世に現れ、お釈迦様のように仏教を説き、多くの人々を救済していくとされている未来仏のことです。現在は、兜率天(とそつてん)という世界で、仏になるための修行をされているとされます。京都の広隆寺にある国宝の弥勒菩薩半跏思惟像は、写真等で、一度は、目にされた方も多いのではないでしょうか。この弥勒菩薩については、『弥勒下生経』や『弥勒大成仏経』などに広く説かれています。また、浄土真宗の根本経典である『仏説無量寿経』にも、弥勒菩薩が登場します。それは、お釈迦様が、阿弥陀如来の救いを、未来の人々にも説いていくように、弥勒菩薩に託す場面に登場します。親鸞聖人も、晩年、数多くのお手紙の中で「まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ…」など、お念仏をいただく信心の人は、弥勒菩薩と等しい位にあることを教えておられます。
 家庭法座の折、この弥勒菩薩について触れさせていただいた時、お参りされていた方から、次のようなご質問をいただきました。
 「御院家さん、五十六億七千万年後に、弥勒菩薩が、この世に現れるという話は、本当にお釈迦様が説かれたことなんですか?五十六億七千万年経ったら、人間も地球も無くなってるかもしれませんよ。」
確かに、ご質問してくださった方が、おっしゃるように、お経の中には、「本当に?」と疑いたくなるお話が、たくさん説かれています。弥勒菩薩のお話も、その一つでしょう。いくらお釈迦様が説かれたことでも、事実とは思えないというのが、私達の正直な感想ではないでしょうか。お経というのは、嘘を説くものではありません。それに対する信頼は、仏教徒であれば、持ち続けなければならないと思います。しかし、お経の読み方で難しいのは、必ずしも事実が説かれているのではないということです。それでは、嘘なのかというと、嘘ではないのです。
 五十六億七千万年後の未来のことなど、事実がどうか、誰にも判定することはできません。そんな無謀なことを、無理矢理信じ込ませようとするのが、お経の真意ではないのです。五十六億七千万年後の未来に行けたとして、私が、弥勒菩薩を見たとします。見てどうなるのでしょうか。珍しいものを見たというだけで、私自身の救いや悟りとは、全く関わりのないことになるのではないでしょうか。珍しいものを見るだけなら、観光旅行と変わりません。お経というのは、一字一句に、私の想像を超えた深い意味が込められてあるのです。
 弥勒菩薩の説話は、お釈迦様が説かれた仏教は、不変不滅のものであることを教えようとされたものだと思います。お釈迦様が説かれた教えは、お釈迦様の個人の見解ではなく、この世界を貫く真理であることを伝えようとされているのです。お釈迦様が説かれた内容を、仏教では、「法」といいます。これは、法則のことです。お釈迦様は、個人的な見解を示されたのではなく、世界を貫いている法則を発見されたということです。命とは、どんな意味を持つものであるのか、物事は、どのように成り立っているのか、その中で、人間はどのように人生を受け止め、死を受け止めていくべきなのか、これらの普遍的な真理を教えているのが仏教であれば、お釈迦様が、人々の記憶の中から消えていくようなことがあったとしても、その普遍的な真理を悟り、人々を救済していく者が、必ず出現していくはずです。なぜなら、阿弥陀如来がそうであるように、安定した真理は、不安定な迷える者に、常に働きかける在り方をしているからです。
 お経というのは、親鸞聖人などの祖師方の指南を仰がなければ、そこにどんな意味が隠されているのか、到底分かりようがありません。二千五百年もの間、様々な人々によって読み続けられてきたのです。無限の感動を与え続ける言葉なのです。よくよく、素直に仰ぎ聞かせていただきましょう。

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