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平成29年6月
  先日、5月21日は、宗祖親鸞聖人のお誕生日でした。正法寺でも降誕会の法要をお勤めし、たくさんの方々にお参りいただきました。お釈迦様も親鸞聖人も、人としてこの世に生を受けたことは、大変有り難いことだとおっしゃっています。この世界には、草や花、小さな虫や大きな動物に至るまで、無数の命の形が存在しています。その命が持つ掛け替えのない尊さは、どの形の命も同じ重みを持っています。仏様の眼から見れば、つまらない命など一つもありません。それぞれが、それぞれのまんま、掛け替えのない輝きを放っているのです。しかし、そのことを聞いて、感動できるのは人だけです。本当の意味で、他の命の尊さを感受できるのは、人だけなのです。
 先日、そのことを目の当たりに感じた出来事がありました。五月は、外に出て目を凝らすと、様々な命に出会うことができます。そんな命溢れる世界に目を輝かすのが、子ども達です。保育園で年長組の子ども達が、トカゲを見つけて、追いかけて遊んでいました。一人の男の子が、素早く動き回るトカゲを素手で捕まえたかと思うと、そのトカゲを優しく両手で包み込みました。すると、別の男の子が、砂場から縁が深めのお皿を持ってきました。そのお皿にトカゲを入れると、他の子ども達が、そのお皿に草をちぎって入れたり、土を入れたりと、お皿の中が、自然の草むらのようになりました。そのお皿を持って、嬉しそうに色んな先生や子どもに見せて歩くのです。とても子どもらしい純粋で素敵な姿に、心を温かくさせてもらいました。
 しかし、その数日後のことです。今度は、お寺で飼っている猫が、お寺の境内でトカゲを追いかけて遊んでいました。前足でトカゲを抑えつけたかと思うと、パッと前足の力を緩めて、わざとトカゲを逃がすのです。そして、逃げたトカゲをまた追いかけて、同じことを繰り返して楽しんでいました。しかし、それを何度か続けた後、突然、前足で抑えつけたトカゲの頭にかぶりつき、トカゲを真っ二つに食いちぎったのです。食いちぎったトカゲを咥えている猫の姿は、背筋をゾッとさせるものでした。いつも、部屋の中で気持ちよさそうに寝ている猫の姿は、それは可愛いものです。時には、私達人間よりも穏やかで安心した世界に生きているように思わせます。しかし、猫には、人間のように他の命を慈しむ心はないのです。命の掛け替えのない輝きを感受する心がないのでしょう。やはり、どれほど可愛く見えても、獣の世界に住んでいるのです。同じトカゲという命に触れながら、一方は、優しく包み込み、一方は、無残に食いちぎっていく、この二つの姿を目の当たりにした時、改めて、人として命恵まれたことは、本当に有り難いことだと思いました。
 しかし、その人よりも、さらに深く豊かな心を持つ者がいます。それを仏様といいます。お釈迦様は、人として生を受けられましたが、三十五歳の時に、仏様に成られました。これは、人と猫が住んでいる世界が違うように、人が持つ命に対する豊かな感受性を、さらに超えていかれ、人とは異なる世界に住むようになったということです。仏様に成られたお釈迦様の前に開かれた命の世界は、怨親平等の世界と言われます。人は、命に親しむことはできますが、それは、自分の都合に合うものに限られていきます。いくら純粋な心を持った子どもでも、人を嚙み殺す毒蛇を、トカゲと同じように親しむことは出来ないでしょう。自分の都合を基準にして、怨みと親しみでもって、命を感受していくのが人の住む世界なのです。それに対して、仏様は、怨みも親しみもない、あらゆる命を平等に慈しみ深く愛することのできる世界に住んでおられます。それぞれの都合が破られ、あらゆる命が、あらゆる命のまんま、掛け替えのなさをもって輝いている世界こそ、真実の世界です。
 たまたま人として生を受けたことは本当に有り難いことですが、さらに、その人の中で、仏様の真実の世界に出遇えたことは、本当に稀なことであり、ものすごく幸せなことだと言わねばなりません。人というのは、自分の都合によいものを求めて、決して思い通りにならない人生に悩んでいきます。様々な命も様々な出来事も、自分の都合を邪魔するものは、決して輝いて見えないのが人の世界です。そして、人として生まれながら、その世界を愚痴と後悔で終わらしてしまう人が多いのです。
 人として命恵まれたからには、聞くべきものを聞き、遇うべきものに遇わせていただき、掛け替えのない私だけに恵まれた生と死を、深く喜びたいものです。本当の命の輝きと喜びを感受した仏様のお言葉を、大切に聞かせていただきましょう。
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