先日、ある御門徒のご法事の折、御当家の方と御親戚の方との間で、次のようなやり取りがありました。
御当家
「〇〇さん、本当に変わりましたね。昔はあまり、仏様を大事にするような人ではなかったですよね。今では、お寺の御法座にもお参りされているんでしょ?」
御親戚
「ええ、昔は、全く仏教に興味がありませんでした。今日のご法事のお婆ちゃんのおかげなんですよ。私の家のご法事に来られた時に、毎回、きつく叱られていました。お念仏が出ない私達に、『それでも浄土真宗の御門徒かね。お念仏申しなさい。』とか、他にも作法のことやらをいつも細かく注意されてきました。何度も叱られている内に、いつの間にか大事にさせていただけるようになったんですよ。お婆ちゃんのおかげです。」
御当家
「へぇ~、そうなんですか。そんな話、お婆ちゃんから一度も聞いたことありませんでした。ご法事にお参りに行って、そんなことを言ってたんですか。」
生前中の故人のお姿が偲ばれる、とても有難いお話でした。
仏教の言葉の中に「善知識(ぜんちしき)」というものがあります。善というのは、そのまま「善い」という意味です。「知識」というのは、「教え導くもの」という意味です。つまり、「善知識」というのは、「善き方向へと教え導いてくださる方」という意味になります。
江戸時代末期に活躍した真宗大谷派(東本願寺)の学僧に香樹院徳竜(こうじゅいん とくりゅう)という方がいらっしゃいました。この徳竜師が、ある御門徒に語った言葉として、次のようなものが残されています。
「いかなる善人でも、念仏申す妨げになるなら悪魔じゃと思え。いかなる悪人でも、念仏申す助けになるならば、善知識じゃと思え。」
自分のことを大切に思ってくれる人であっても、念仏を申す妨げになるような人ならば悪魔だと思えというのです。逆に、自分を傷つけるような人であっても、念仏を申す助けになるような人であれば、善知識としてその人を敬い大切にしなさいというのです。また、妙好人として有名な浅原才市さんが残された詩にも、次のようなものがあります。
「世界のものが ことごとく ちしきに変じて これをわしによろこばす」
「ちしき」というのが、善知識のことですが、この世界のあらゆるものが、善知識となって、私に喜びを与えてくださるというのです。
これらの言葉からも分かりますように、善知識というのは、単に教えを授ける師匠というのではなく、あらゆるものの上に味わっていくものなのです。自分が傷つけた出来事も、それがご縁となり仏法を聞くことが出来たなら、私を傷つけた人は尊い善知識です。人だけではありません。動物や虫や植物も善知識として敬い感謝するべきものに成り得るのです。
阿弥陀如来のお心を頂き、その心に育てられていくというのは、少しずつ新しい心の視野が開けてくるということでもあります。ある時は順縁となり、ある時は逆縁となり、善きにつけ悪しきにつけ、苦しみ楽しみにつけて、人生のあらゆる出会いは、私に念仏を慶ばせてくださった人生の教師だったといただいていけるような心の視野が開かれていきます。人生において出会うあらゆるものが、頭を下げ感謝すべき尊いものとして味わうことができたなら、その人の人生は、まことに幸せなものということができるでしょう。人生において、蓋をして隠してしまうようなものは一切なく、あらゆるものを尊く受け入れていけるからです。
浄土真宗の御法事は、有縁の方々が、故人を善知識として味わうところに尊い意味があると思います。人間ですから、様々な想いを持つのは当たり前です。しかし、その人から頂いたものが、順縁であれ逆縁であれ、仏法に導き私を育ててくださった尊い人生の教師として有難く感謝させていただけるところに、本当の弔いの意味があるのです。
故人のお蔭で・・・と喜んでいけるご法事を勤めさせていただきましょう。