「老いることが悲劇ではない」

【住職の日記】

先日、中学生とお年寄りの方との交流会にご参加された御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

 「先日、中学校から、最近の中学生はお年寄りの方と接する機会が減っているので、お年寄りの方と接する機会を作りたいというお話がありました。何人かの知り合いに声をかけて参加させてもらったんですが、後で、中学生からいただいた感想文を読んで、ショックを受けました。『お年寄りは、かわいそうだと思いました。』と感想を書いている中学生が、とても多かったんです。年を重ねるということの幸せを、色々と中学生にお話しましたが、どこまで伝わったのか分かりません。何か寂しい感じがします。」

子どもの感性は、周りの大人の感性によって育てられていくものです。子どもだけではなく、現代は、大人も、「お年寄りは、かわいそう」と受け止めていく人が多いのではないでしょうか。しかし、これは、現代だけの問題ではないのかも知れません。本来、人間が持つ感性は、このような、どこか貧しいものなのでしょう。

二五〇〇年前、青年だったお釈迦様が悩まれたものの一つも、この老いるという避けがたい現実でした。お城に住む王子様だったお釈迦様の周りには、幼少期から青年期に至るまで、若い男女しかいなかったと言われています。それが、青年となり、はじめて街に出て、老人に出会うのです。顔には皺が深く刻まれ、腰が曲がり、おぼつかない足取りで歩く人間を初めて見たとき、青年だったお釈迦様は、衝撃を受けます。家来に、「あれは、何だ?」と尋ねたと伝えられています。もしかすると、青年だったお釈迦様も、老人を見て「かわいそう・・・」と思われたかもしれません。しかし、次の家来の言葉によって、老人の姿が、お釈迦様自身に深い悩みをもたらしていきます。その言葉は、「あなたも必ず老人になっていくのです。」という一言でした。

老いるという現実が、他人事であるうちは、「かわいそう・・・」で済んでいくかもしれません。しかし、それが自分事であるなら、「かわいそう・・・」では済みません。誰もが、かわいそうな自分には、なりたくないからです。しかし、生き続ければ、必ず老いていくのです。老人を「かわいそう・・・」と受け止めていく人にとっては、自分が老いていくことは、悲劇以外の何者でもありません。二五〇〇年前に一人の青年を襲ったこの悲劇が、仏教の出発点となっていくのです。

この悲劇を抱えた二十九歳のお釈迦様は、王子という地位や名誉、財産、また家族までも捨てて、一人、悟りを求めていかれます。そして、三十五歳の時、菩提樹という木の下で、悟りを開かれたと伝えられています。悟りというのは、経験した者でしか、その全容は分かりません。親を経験したことない子どもが、親が見ている世界が、分からないことと同じです。しかし、分かることはできませんが、経験をしている人の言葉や振る舞いに触れることによって、その世界を垣間見ることはできます。

仏教というのは、悟りの世界を経験していない人間に、その世界を分からせようとする教えではありません。どうすれば、お釈迦様と同じ悟りの経験を得ることができるのか、その道を教えようとしているのです。それと同時に、その悟りの世界を垣間見ることができるような言葉を紡いでくださり、私達に、本当の正しい世界がどういうものかを知らせようとするものなのです。

悟りを経験されたお釈迦様の言葉の中には、老いることが悲劇であるような言葉はありません。むしろ、老いることの中に喜びを味わっておられる世界を垣間見ることができます。老いることが悲劇ではないのです。老いることを悲劇としか受け止めることのできない感性が、悲劇なのです。仏様というのは、喜びに満ちた存在です。本当の自分、そのままの自分を喜べる世界を教えてくださいます。本当の自分、そのままの自分とは、老いて病んで死んでいく思いのままにならない自分です。

呪いや祈祷によって、現世の御利益を謳う宗教は、これら思いのままにならない現実から、逃げることのできる道があると教えるものです。それは、本当の自分から逃げることを教えていくものでしょう。しかし、仏教は、本当の自分から逃げる道ではなく、本当の自分を受け入れ喜ぶことのできる道を教えてくださるのです。

思いのままにはなっていかないのが、私の人生です。仏様のお言葉に触れる中に、年を重ねても、幸せそう・・・と思われるような喜びに満ちた日々を大切にしていきましょう。

2023年7月1日