「読誦(どくじゅ)」

【住職の日記】

明けましておめでとうございます。今年も、お念仏薫る中に、悲喜交々の日々を有り難く頂戴して参りましょう。

さて、先日、ある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

 「御院家さん、先日は、お取り越し報恩講のお勤め、ありがとうございました。一年生になる孫と一緒にお正信偈のお勤めが出来て、本当に有り難いご縁でした。孫が、聖典を持って、一緒にお勤めしてくれたのは、うれしかったのですが、お勤めの途中、孫は、残りのページ数がどれくらいあるか、何度もページをめくって確認するんです。早く終わってほしかったのでしょうね。でも、それを見て、私もご縁をいただいた最初の頃は、同じ事をしていたなぁと微笑ましく思いました。孫も、私と同じ道を歩んでくれているなぁと思うと、うれしかったです。」

とても、ほっこりするお話を聞かせていただきました。お勤めというのは、決して楽しいものではありません。内容の分からないものを、姿勢を正し、声に出して読み続けるというのは、大人でも大変なことだと思います。まして、文字を習い始めたばかりの小学一年生にとっては、なおさらのことでしょう。

お勤めは、正式には「読誦(どくじゅ)」と言い、阿弥陀如来のお浄土へ往生するための正しい行いの一つに数えられるものです。親鸞聖人がとても尊敬されている、善導大師(ぜんどうだいし)という中国の唐の時代に活躍された高僧は、阿弥陀如来のお浄土へ往生するための正しい行いとして、五正行(ごしょうぎょう)という五つの行いを示されています。この五正行の中に、読誦が含まれています。お経を声に出して拝読するお勤めは、お浄土に往生するためには、正しく心がけていかなければならない大切な行いなのです。

仏教というのは、本来、この正しい行というものを積み重ねることによって、正しくない自分自身を正していくことを教えるものです。正しい行いをし続けることによって、正しい在り方である仏様へと近づいていく道を教えているのが仏教です。しかし、これを実行していくことは、かなり難しいことなのです。読誦も、ただ声に出してお経を読んでいればよいというものではありません。正しい行いというのは、正しい心が伴っていなければならないのです。姿勢を正し、声に出してお勤めをしていても、その心の中が仏様とはまったく別のことで占領されているのなら、正しい行いをしたことにならないのです。本来の読誦は、心に仏様のことを一心に純粋に思いながら、お勤めをすることなのです。

しかし、私たちの心は、なかなかそのようにはなっていきません。表向き、きちんと姿勢を正し、丁寧にお勤めをしているようでも、心の中は、仏様とはまったく別のことを考えています。早く終わらないかなぁと考えながら、残りのページ数を気にする姿は、私たちが、どれほど正しい行いからかけ離れた存在かを物語っています。親鸞聖人ご自身も、そのことに深く悩まれ、自分自身に絶望していかれたのです。そして、その絶望の中で出遇っていかれたのが、阿弥陀如来の本願でした。

阿弥陀如来の願いは、どうしようもない我が子の幸せの実現です。阿弥陀如来の慈しみの眼差しは、どうしようもない存在にこそ向けられているのです。姿勢を正し、お経を拝読しながらも、残りのページ数を気にする人間を、切り捨てるような仏様ではありません。むしろ、そういったどうしようもない人間を、愛してくださるのが、本当の仏様なのです。愛してくださるというのは、決して見捨てることなく、必ず責任をもって、そのどうしようもない人間を育ててくださるということです。

私たちは、お勤めをすることを通して、実は、阿弥陀如来様からのお育てをいただいているのです。残りのページ数が気にならなくなった私がいるのなら、それは、私の行いの積み重ねの結果ではありません。阿弥陀如来の深い願いが、私を育ててくださった結果なのです。どうしようもない私が、不思議にも変化している姿の上に、仏様の働きを実際のものとして味わっていくのです。これが、仏様との出遇いです。

親鸞聖人は、一生懸命姿勢を正しながら、残りのページ数を気にしてしまう、そのどうしようもない姿は、阿弥陀如来に温かく抱かれている有り難い姿であることを教えてくださいました。

仏縁の中にある姿というのは、それがどんな姿であれ、本当に尊いことです。大切なお子さんやお孫さんと一緒に、温かいお慈悲に抱かれていく幸せな日々を、大切に心がけていきたいものですね。

2024年1月1日