「敬うという心」

先日、嘉川保育園新園舎の内覧会の時のことです。当日は、百名を超える方々がお越しくださり、とても賑やかに内覧会を終えることができました。

内覧会の終了間際、今は小学六年生の卒園児達数名が、勢いよく駆け込んできました。朝からサッカーの試合があったらしく、試合後、ドロドロになったユニフォームのままで、急いで来園してくれたようでした。新園舎に入るなり、興奮した様子で口々に感嘆の声をあげながら、園舎内を走り回るように見学をしていました。

しかし、この子達が帰った後、保育園の職員から、とても嬉しい話を聞かせていただいたのです。それは、この子達が、二階のホールに見学に来た時のことです。来た時の勢いそのままに、階段を賑やかに駆け上がり、ホールに勢いよく飛び込んできたそうです。その後も、ホールの中を走り回ると思いきや、ホール正面に御安置されてある大きなお仏壇を見つけると、誰が言うでもなく、みんなきちんと正座をして、手を合わせて礼拝をしたというのです。

この子達は、正法寺の日曜学校には来ていません。保育園児だった頃は、毎日、仏様に礼拝をしていましたが、保育園を卒園してから六年が経過しています。それでも、お仏壇を前にすると、合掌と礼拝をせずにはおれなかったのでしょう。保育園児だった頃、毎日大切にしていたことが、今なお消えることなく、その子達の姿の上に生き続けていることが、とても嬉しく感動したことでした。

「礼拝する」や「敬う」という姿は、人間にとってとても大切なことです。しかし、この言葉が、最近は、あまり聞かれなくなった気がします。言葉が聞かれなくなっているというのは、その心が、人々の中から失われてきているということです。実際に、「礼拝する」や「敬う」という言葉を聞いて、その言葉通りの感動を感じる方は、少ないのではないでしょうか。どちらかというと、役に立たないものとして感じたり、単に難しく感じるだけの方も少なくないように思います。

そもそも、お寺という空間は、仏様を敬い、仏様に礼拝するための宗教空間として形作られているものです。しかし、近年は、お寺というと、観光する場所として広く認知されるようになりました。以前、奈良の東大寺にお参りさせていただいた時、大仏様を前にして、誰も礼拝している人はいませんでした。みんな、口を開けて、大仏様を見上げている人ばかりです。それは、過去の歴史的遺物として、その珍しさに感動しているだけで、そこに敬うという感受性はありません。これが普通であり、正常であるとする社会は、どこか不気味で恐ろしい感じさえします。

敬うという心は、自分の都合よりも大切なものに出遇い、それに対し頭が下がっていく心のことです。人間は、自らの都合を貪る貪欲と、その都合を邪魔するものに対して怒りを起こしていく瞋恚によって、その心が占領されていく存在です。これを、親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫」という言葉で、自らの有り様を深く見つめていかれました。私達は、貪欲・瞋恚・愚痴という煩悩の太い鎖に繋がれた不自由な存在なのです。お釈迦様の悟りを「解脱」という言葉で表現することがありますが、仏様の世界に出遇っていくことは、この不自由な身が、自由な身へと解放されていくことでもあるのです。

無病息災、家内安全、合格祈願、金運上昇などなど、自らの都合を大切なものとする言葉は、世の中に溢れています。しかし、本当に大切なものは、そこにはありません。本当に大切なものは、この私を正しい方向へと導くものでなければなりません。仏教で大悲と表現されていく純粋な仏心が、私を正しい方向へと導いてくださるのです。それは、あらゆる命の悲しみに寄り添うことの出来る心であり、あらゆる命の安らぎのために自らの命を犠牲にできる心です。私達は、そんな大きな清らかさの中に抱かれ、慈しまれている掛け替えのない存在であることを、親鸞聖人は、教えてくださっています。

仏様を敬うというのは、清らかな大悲、無限の優しさに心打たれ、煩悩の鎖に繋がれた自らの浅ましさを知らされていくことです。仏様に手を合わせた子ども達に、仏様を敬う心があるかどうかは分かりません。でも、自分の都合とは関係のないところで、仏様に手を合わせることが大切なことであることを知っている姿が尊いのです。敬う心は、そんな姿の上に少しずつ育てられていくものだと思います。

自分の都合に振り回されることなく、仏様に手を合わせることを丁寧に心がけていく日々を大切にしていきましょう。

【住職の日記】

 

2024年6月1日