New 「仏に成るべし」

【住職の日記】

先日、四月から大学生になる日曜学校の卒業生数人が、高校卒業と大学入学の奉告に、お寺にお参りに来てくれました。久し ぶりに、本堂でお正信偈をお勤めし、住職から、短いはなむけの御法話をさせていただきました。みんな、とてもいい表情で、頷きながら、御法話を聞いてくれました。その時、京都の大学に進学する男の子が、次のようなお話をしてくれました。

 「僕の進学する大学は、芸術系の大学で、実技を中心に、三日間にわたって試験がありました。試験中は、京都のホテルに一人で泊まっていたんですが、試験が午後からだったので、午前中、京都市内を散策する時間もありました。西本願寺にもお参りしましたよ。十一時から御法話があったので、西本願寺で御法話を聞いてから、試験を受けに行ったんですよ。」

とても、うれしいお話を聞かせていただきました。京都には、様々な寺院や神社があります。その中で、神社ではなく寺院にお参りしてくれたこと、寺院の中でも、本願寺にお参りして御法話を聞いてくれたことが、何よりも有り難くうれしいことでした。

世間一般の感覚では、人生をかけた大切な試験の前には、寺院ではなく神社にお参りすることが当たり前ではないでしょうか。試験に受かるように、神様に願掛けをするのが一般的でしょう。京都なら、受験の神様を奉る神社が、たくさんあります。

蓮如上人の行実を伝える『蓮如上人御一代記聞書』というお書物の中に、次のようなお話があります。

「天王寺土塔会、前々住上人(蓮如)御覧候ひて仰せられ候ふ。あれほどのおほき人ども地獄へおつべしと、不便に思し召し候ふよし仰せられ候ふ。またそのなかに御門徒の人は仏に成るべしと仰せられ候ふ。これまたありがたき仰せにて候ふ。」

天王寺土塔会というのは、大阪の四天王寺南大門前にあった午頭天王を奉る神社で行われていたお祭りのことです。午頭天王は、京都の八坂神社の神様でもあり、疫病神として知られる神様です。有名な京都の祇園祭は、この疫病神である午頭天王を鎮め退散させるために、花笠や山鉾を出して京都市中を練り歩いたお祭りが起源だと言われています。蓮如上人が、大阪の四天王寺の近くを通られたとき、その前の神社で盛大に疫病神を鎮めるためのお祭りが行われ、多くの人がそのお祭りに参加されていたのです。その様子を見られた蓮如上人が、「あれだけの人々が地獄に落ちると思うと、胸が痛む」と仰られ、続いて、「阿弥陀如来の願いを聞かせていただき、お念仏の人生が恵まれている本願寺の御門徒の方々は、必ず仏に成るのだ」と仰られたというのです。

神社にお参りする人々を見て、地獄に落ちると胸を痛められた蓮如上人のお姿は、何を意味しているのでしょうか?地獄という世界は、自らの都合のみを貪り、周りの方々の善意を見失い、自分以外の様々な人々を鬼のような敵にしてしまう世界です。自分の願いを叶えようと、必死になる姿は、知らず知らずのうちに周りの人々を傷つけていきます。また、自分にとって都合の悪い出来事を避けようとする姿は、老病死を抱えるそのままの自分を否定する姿でもあります。

仏に成っていく世界というのは、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみに寄り添っていく仏様の清らかな願いに育てられていく世界です。それは、自らの願いのみを求めていく姿の上に、恥ずかしさを知らされ、老病死という思いのままにならない現状の上に、合掌していける尊い意味を頂いていく世界です。私の願いが叶うところには、必ず私以外の誰かが傷ついていく世界があることを忘れてはなりません。受験というのも、合格した人の背後には、必ず不合格を突きつけられた人がいるのです。その人達の悲しみに気づけるかどうかが、人生において、大切なことではないでしょうか。

仏様のみ教えというのは、自らの欲望に目がくらみ、真実を見失ってしまう者に、本当の安らぎの世界を教えてくださるものです。「地獄におつべし」と言われる世界に埋もれていこうとする私達に、「仏に成るべし」と言われる世界を恵もうとしてくださるのが、お念仏の働きです。

人生は、けっして平坦な道ではありません。険しい道に差し掛かった時にこそ、自分の願いではなく、仏様の願いを聞かせていただくことを大切にさせていただきたいものです。どんな時も、温かい仏様の願いの中にある私であることを大切に聞かせていただきましょう。

2024年4月8日