New 「敬うという心」

先日、嘉川保育園新園舎の内覧会の時のことです。当日は、百名を超える方々がお越しくださり、とても賑やかに内覧会を終えることができました。

内覧会の終了間際、今は小学六年生の卒園児達数名が、勢いよく駆け込んできました。朝からサッカーの試合があったらしく、試合後、ドロドロになったユニフォームのままで、急いで来園してくれたようでした。新園舎に入るなり、興奮した様子で口々に感嘆の声をあげながら、園舎内を走り回るように見学をしていました。

しかし、この子達が帰った後、保育園の職員から、とても嬉しい話を聞かせていただいたのです。それは、この子達が、二階のホールに見学に来た時のことです。来た時の勢いそのままに、階段を賑やかに駆け上がり、ホールに勢いよく飛び込んできたそうです。その後も、ホールの中を走り回ると思いきや、ホール正面に御安置されてある大きなお仏壇を見つけると、誰が言うでもなく、みんなきちんと正座をして、手を合わせて礼拝をしたというのです。

この子達は、正法寺の日曜学校には来ていません。保育園児だった頃は、毎日、仏様に礼拝をしていましたが、保育園を卒園してから六年が経過しています。それでも、お仏壇を前にすると、合掌と礼拝をせずにはおれなかったのでしょう。保育園児だった頃、毎日大切にしていたことが、今なお消えることなく、その子達の姿の上に生き続けていることが、とても嬉しく感動したことでした。

「礼拝する」や「敬う」という姿は、人間にとってとても大切なことです。しかし、この言葉が、最近は、あまり聞かれなくなった気がします。言葉が聞かれなくなっているというのは、その心が、人々の中から失われてきているということです。実際に、「礼拝する」や「敬う」という言葉を聞いて、その言葉通りの感動を感じる方は、少ないのではないでしょうか。どちらかというと、役に立たないものとして感じたり、単に難しく感じるだけの方も少なくないように思います。

そもそも、お寺という空間は、仏様を敬い、仏様に礼拝するための宗教空間として形作られているものです。しかし、近年は、お寺というと、観光する場所として広く認知されるようになりました。以前、奈良の東大寺にお参りさせていただいた時、大仏様を前にして、誰も礼拝している人はいませんでした。みんな、口を開けて、大仏様を見上げている人ばかりです。それは、過去の歴史的遺物として、その珍しさに感動しているだけで、そこに敬うという感受性はありません。これが普通であり、正常であるとする社会は、どこか不気味で恐ろしい感じさえします。

敬うという心は、自分の都合よりも大切なものに出遇い、それに対し頭が下がっていく心のことです。人間は、自らの都合を貪る貪欲と、その都合を邪魔するものに対して怒りを起こしていく瞋恚によって、その心が占領されていく存在です。これを、親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫」という言葉で、自らの有り様を深く見つめていかれました。私達は、貪欲・瞋恚・愚痴という煩悩の太い鎖に繋がれた不自由な存在なのです。お釈迦様の悟りを「解脱」という言葉で表現することがありますが、仏様の世界に出遇っていくことは、この不自由な身が、自由な身へと解放されていくことでもあるのです。

無病息災、家内安全、合格祈願、金運上昇などなど、自らの都合を大切なものとする言葉は、世の中に溢れています。しかし、本当に大切なものは、そこにはありません。本当に大切なものは、この私を正しい方向へと導くものでなければなりません。仏教で大悲と表現されていく純粋な仏心が、私を正しい方向へと導いてくださるのです。それは、あらゆる命の悲しみに寄り添うことの出来る心であり、あらゆる命の安らぎのために自らの命を犠牲にできる心です。私達は、そんな大きな清らかさの中に抱かれ、慈しまれている掛け替えのない存在であることを、親鸞聖人は、教えてくださっています。

仏様を敬うというのは、清らかな大悲、無限の優しさに心打たれ、煩悩の鎖に繋がれた自らの浅ましさを知らされていくことです。仏様に手を合わせた子ども達に、仏様を敬う心があるかどうかは分かりません。でも、自分の都合とは関係のないところで、仏様に手を合わせることが大切なことであることを知っている姿が尊いのです。敬う心は、そんな姿の上に少しずつ育てられていくものだと思います。

自分の都合に振り回されることなく、仏様に手を合わせることを丁寧に心がけていく日々を大切にしていきましょう。

【住職の日記】

 

2024年6月1日

「人生における本物の楽しみを求めて」

三月末、卒園していく保育園の年長組の子ども達一人一人とお話をさせていただいた時のことです。保育園で一番楽しかったことや、小学校に入学したら楽しみにしていることなど、様々なお話を一人一人とさせていただきました。保育園で一番楽しかったことについては、運動会や発表会、お泊まり保育や、外で友達と鬼ごっこをしたことなど、子ども時代にしか経験することができない素敵な思い出を、それぞれが、キラキラした笑顔で話してくれました。

その中で、一歳の時から保育園に来てくれていた、とても活発で元気な男の子の答えが、とても印象的でした。その子は、とてもキラキラした笑顔で「お勤め!」と答えてくれたのです。「え?お勤めって、朝のお勤め?」と聞き返すと、「うん!お勤めが、僕、一番好き!楽しい!」と、改めてニコニコしながら答えてくれました。

「お勤め」というのは、阿弥陀如来様に礼拝をし、読経をすることです。保育園では、ご本山で制定されている「幼児のおつとめ」という簡単な音楽礼拝から始まり、夏頃には、七高僧の第一祖に数えられる龍樹菩薩が制作された十二礼の和訳「らいはいのうた」、そして、秋頃からは、親鸞聖人が制作された「正信念仏偈」を三歳~五歳までの子ども達が、毎朝、お勤めしています。「正信念仏偈」になると、十五分~二十分ぐらいの時間がかかります。その間、子ども達は、正座をし、姿勢を正して、声に出してお勤めをするのです。その後、園長である住職から五分程度のお話があります。外で走り回ることが大好きな活発な男の子にとって、朝のお勤めの時間は、苦痛であっても不思議ではありません。しかし、その男の子は、楽しい!と言ってくれたのです。

この男の子の笑顔を見て、改めて、仏教における楽しさについて、考えさせられたことでした。仏教というと、本来、楽しさとは、かけ離れた印象を持っている人が多いと思います。欲望を満たすことを否定し、煩悩をコントロールしていくことを教えるのが仏教だからです。読経する時も、欲望のままに行動することは許されません。どれだけ、外で遊びたいと思っても、その思いをコントロールし、ジッと座っていなければならないのです。楽しいはずがないと、多くの人が思うのは当然です。

しかし、お経の中には、たくさん「楽」という字が使われています。親鸞聖人が真実の経として拠り所とされている『仏説無量寿経』の中にも、信心のことを「信楽」と表現されたり、お浄土のことを「安楽国」と表現されたりしています。「楽しみ」というのは、仏教において、とても大切な言葉として扱われているのです。

しかし、お経の中で説かれていく楽しみと、私達が求めている楽しみは、その中身に大きな違いがあります。親鸞聖人が尊敬された七高僧の第三祖に数えられる曇鸞大師の『往生論註』というお書物の中に、次ようなお言葉が示されています。

「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通もつて教化地に至る。」

あらゆる命が抱える苦悩を大慈悲をもって受け止め、悲しみや苦しみが渦巻く煩悩の林の中に飛び込んでいくことを、「遊戯」という言葉をもって表現されています。人の悲しみや苦しみを背負っていくことは、決して楽しいことではありません。人の苦悩を背負うことは、自分の苦悩以上に重いものです。それを、遊戯と表現し、楽しみとして捉えていくのが、仏様の世界なのです。仏様における楽しみは、自らの欲を満足させることではなく、あらゆる命の悲しみを共に悲しみ、あらゆる命の幸せを実現していくところにあるのです。本当に楽しいことは、小さな悲しみも見捨てることなく、あらゆる命の幸せを願っていくところに実現していくということなのでしょう。

お浄土への歩みというのは、そんな本当の楽しみに向かった歩みです。阿弥陀如来様に礼拝することも、読経することも、お寺にお参りすることも、仏様に関わることの中には、本当の楽しみが満たされているのです。本当の楽しみに出遇った人は、本当の輝きを放っています。仏教というのは、教えに生かされ、本当の楽しみを味わう人によって、脈々と伝わってきたところが大きいのです。

人生において、楽しみを求めずに生きる人はいないでしょう。しかし、求める楽しみが、その人自身を虚しくさせたり、破滅させたりするのであれば、それは、本当の楽しみではないでしょう。娑婆世界に生きる私達が求めていく楽しみは、そんな偽りの楽しみであることが多いのです。

人生における本物の楽しみを求めて、仏法を聞き始めるのも、大きなご縁です。仏様を中心に、本物の楽しみを味わえる日々を大切にさせていただきましょう。

【住職の日記】

 

2024年5月7日

「仏に成るべし」

【住職の日記】

先日、四月から大学生になる日曜学校の卒業生数人が、高校卒業と大学入学の奉告に、お寺にお参りに来てくれました。久し ぶりに、本堂でお正信偈をお勤めし、住職から、短いはなむけの御法話をさせていただきました。みんな、とてもいい表情で、頷きながら、御法話を聞いてくれました。その時、京都の大学に進学する男の子が、次のようなお話をしてくれました。

 「僕の進学する大学は、芸術系の大学で、実技を中心に、三日間にわたって試験がありました。試験中は、京都のホテルに一人で泊まっていたんですが、試験が午後からだったので、午前中、京都市内を散策する時間もありました。西本願寺にもお参りしましたよ。十一時から御法話があったので、西本願寺で御法話を聞いてから、試験を受けに行ったんですよ。」

とても、うれしいお話を聞かせていただきました。京都には、様々な寺院や神社があります。その中で、神社ではなく寺院にお参りしてくれたこと、寺院の中でも、本願寺にお参りして御法話を聞いてくれたことが、何よりも有り難くうれしいことでした。

世間一般の感覚では、人生をかけた大切な試験の前には、寺院ではなく神社にお参りすることが当たり前ではないでしょうか。試験に受かるように、神様に願掛けをするのが一般的でしょう。京都なら、受験の神様を奉る神社が、たくさんあります。

蓮如上人の行実を伝える『蓮如上人御一代記聞書』というお書物の中に、次のようなお話があります。

「天王寺土塔会、前々住上人(蓮如)御覧候ひて仰せられ候ふ。あれほどのおほき人ども地獄へおつべしと、不便に思し召し候ふよし仰せられ候ふ。またそのなかに御門徒の人は仏に成るべしと仰せられ候ふ。これまたありがたき仰せにて候ふ。」

天王寺土塔会というのは、大阪の四天王寺南大門前にあった午頭天王を奉る神社で行われていたお祭りのことです。午頭天王は、京都の八坂神社の神様でもあり、疫病神として知られる神様です。有名な京都の祇園祭は、この疫病神である午頭天王を鎮め退散させるために、花笠や山鉾を出して京都市中を練り歩いたお祭りが起源だと言われています。蓮如上人が、大阪の四天王寺の近くを通られたとき、その前の神社で盛大に疫病神を鎮めるためのお祭りが行われ、多くの人がそのお祭りに参加されていたのです。その様子を見られた蓮如上人が、「あれだけの人々が地獄に落ちると思うと、胸が痛む」と仰られ、続いて、「阿弥陀如来の願いを聞かせていただき、お念仏の人生が恵まれている本願寺の御門徒の方々は、必ず仏に成るのだ」と仰られたというのです。

神社にお参りする人々を見て、地獄に落ちると胸を痛められた蓮如上人のお姿は、何を意味しているのでしょうか?地獄という世界は、自らの都合のみを貪り、周りの方々の善意を見失い、自分以外の様々な人々を鬼のような敵にしてしまう世界です。自分の願いを叶えようと、必死になる姿は、知らず知らずのうちに周りの人々を傷つけていきます。また、自分にとって都合の悪い出来事を避けようとする姿は、老病死を抱えるそのままの自分を否定する姿でもあります。

仏に成っていく世界というのは、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみに寄り添っていく仏様の清らかな願いに育てられていく世界です。それは、自らの願いのみを求めていく姿の上に、恥ずかしさを知らされ、老病死という思いのままにならない現状の上に、合掌していける尊い意味を頂いていく世界です。私の願いが叶うところには、必ず私以外の誰かが傷ついていく世界があることを忘れてはなりません。受験というのも、合格した人の背後には、必ず不合格を突きつけられた人がいるのです。その人達の悲しみに気づけるかどうかが、人生において、大切なことではないでしょうか。

仏様のみ教えというのは、自らの欲望に目がくらみ、真実を見失ってしまう者に、本当の安らぎの世界を教えてくださるものです。「地獄におつべし」と言われる世界に埋もれていこうとする私達に、「仏に成るべし」と言われる世界を恵もうとしてくださるのが、お念仏の働きです。

人生は、けっして平坦な道ではありません。険しい道に差し掛かった時にこそ、自分の願いではなく、仏様の願いを聞かせていただくことを大切にさせていただきたいものです。どんな時も、温かい仏様の願いの中にある私であることを大切に聞かせていただきましょう。

2024年4月8日

「三途の川」

【住職の日記】

先日、ある御門徒宅に七日勤めにお参りした時のことです。ご遺族の方から、次のようなご質問をいただきました。

「御住職、よく三途の川を渡ると言いますが、主人は、もう無事に三途の川を渡ったでしょうか?それと、やっぱり、四十九日の間は、この辺りを迷っているのでしょうか?主人のことが心配で・・・」

大切な方との今生の別れは、どんな人にも深い悲しみと決して小さくはない後悔を遺していきます。日本において、その悲しみと後悔を癒す大きな役割を果たしてきたのが、仏教でした。その中でも、死後四十九日まで続く七日ごとのお勤めは、遺族の方々の悲しみと後悔を癒やしていくのに、特に大切にされてきた仏事です。

元々は、四十九日まで続く七日ごとのお勤めは、インドの小乗仏教で説かれた中陰思想に基づいています。小乗仏教では、人間が死ぬと、次にまた生まれ変わると考えます。生まれ変わる世界は、天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界です。その人の生前中の行いによって、この六つの世界のどこかに生まれると考えます。しかし、すぐには生まれ変わりません。生まれ変わるまでには、ある程度の時間がかかると考えるのです。それが、七日です。最初の七日、初七日までに生まれ変わる先が決まらない人は、次の七日目、二七日に決まります。二七日に決まらない人は、次の七日目に、、、という具合に、七七日、四十九日までには、どんな人も次の生まれ変わり先が決まると考えるのです。今生から来世に移り変わるまでの中間的な存在を、中陰と言います。七七日は、中陰が満ちるということで、満中陰というのです。

この中陰思想が、インドから中国に入ってきます。その時、中国独自の十王信仰と重なり、七日ごとに十人の王から裁きを受けるという考え方に変化します。有名な閻魔大王は、五回目の七日目、五七日に裁きを下す王として登場します。三途の川というのも、この時に中国で成立した考え方です。三途というのは、地獄界・餓鬼界・畜生界の三つの悪道のことです。三途の川を渡るというのは、四十九日の間に、とりあえずこの三つの悪い世界には墜ちずに済んだことを表わすのです。そして、この中陰思想に追善供養という考え方が加わっていきます。生きている人が、亡くなった方に善い行いをプレゼントできるという考え方です。亡くなった方が、できるだけよい裁きを受け、天上界や人間界に生まれ変われるように、今生きている者が、亡くなった方の代わりに善なる行いを積み、その功徳を亡き方にプレゼントするのです。四十九日まで続く七日ごとのお勤めは、この追善供養として考えられてきたのです。

しかし、この多くの人々の悲しみと後悔を癒やしてきた中陰思想と追善供養の考え方を、親鸞聖人は、強く否定をしていかれました。お釈迦様が説かれた仏教は、人間界に留まったり、天上界に生まれることを教えるものではないからです。また、自分さえも救えない私には、自分以外の者を救うだけの本当の善なる行いは不可能だと自分自身を深く見つめていかれたからでした。

そして、本当の意味で人の悲しみと後悔を癒やしていく力は、人の力ではなく、阿弥陀如来の願いの力にあると見ていかれたのです。親鸞聖人は、死後の裁きを畏れて、自分勝手に描いていく善悪の世界に振り回されてはいけない。ただ、お念仏を申す人生を大切に生きなさいと教えてくださいます。お念仏を申す人生とは、阿弥陀如来の慈愛に抱かれていく人生です。どんな存在も、一人子のごとく愛され願われているのです。亡くなっていった方も、閻魔大王から裁かれる存在ではなく、阿弥陀如来から愛され願われる掛け替えのない仏の子としての意味をもっているのです。

故人を大切に思っている人ほど、悲しみや後悔も大きなものとなることでしょう。しかし、それは、阿弥陀如来に出遇っていく掛け替えのないご縁でもあるのです。人は、自力の虚しさに直面するとき、仏様の働きの尊さに出遇うことができるのです。浄土真宗において、四十九日までの七日ごとのお勤めは、悲しみと後悔の中に沈む人が、お勤めを通して、心配のない阿弥陀如来の深いお慈悲に出遇うためのものなのです。それは、大切な故人からいただいた掛け替えのない仏縁です。故人は、悲しみや後悔だけを遺して去っていくのではありません。悲しみや後悔の中に、清らかな慈しみの働きを響かせてくださるのです。

お勤めは、故人のために私がするものではなく、故人が、私のために仏様のお心を聞かせてくださっているのです。共々に、仏様の温かいお慈悲の中にあることを、大切に聞かせていただきましょう。

2024年3月5日

「一日でも早く、お浄土への道を歩み始めましょう」

【住職の日記】

今年も、多くの方々の御報謝の中で、親鸞聖人の御正忌報恩講が、無事勤まりました。御報謝くださった皆様、まことにありがとうございました。

今年は、コロナ禍が明け、四年ぶりにお斎の御報謝が再会し、各座の人数制限も撤廃されました。しかしながら、正法寺門徒全体に高齢化と過疎化が進んでおり、コロナ禍前の参詣者数には戻らないのが現状です。これは、全国の浄土真宗寺院が抱えている共通した問題でもあります。

そんな中で、御正忌報恩講の二日目の夜、大逮夜のご縁に、日曜学校の卒業生である高校生が数名、お参りに来てくれました。遊びに来てくれたのではなく、仏法のご縁に遇いに来てくれたのです。法座前に、みんなでお斎をいただき、その後は、本堂に座り、みんなでお勤めのご縁に遇い、御法話も最後までお聴聞してくれました。御講師の山本泉茂先生が、高校生にできるだけ合わせてくださり、冗談を交えながら、とても易しくお話してくださったこともあり、高校生の子ども達は、最後まで、とても和やかな表情で御法話を聞いてくれていました。その高校生のお孫さんと一緒にお参りされた方が、ご自分、お嫁さん、お孫さんと三世代一緒にそろってお聴聞できたことを、目に涙を浮かべて喜んでおられたのが印象的でした。

この度、お参りしてくれた高校生の一人は、年末の除夜会にも、学校の友達を連れてお参りしてくれていました。その時、初めてお寺にお参りした友達数人に、「最初に、本堂の仏様にお参りをしないと、鐘は撞けんのんよ」と、本堂にお参りすることを教えてくれていました。過疎化と高齢化が進む中で、十代の若者が、仏法に遇うことを喜んでくれている姿は、とてもうれしく、ありがたいものです。

本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人のお言葉に「わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。」というものがあります。仏法は、できるだけ若い時から聞くようにしなさい。歳を重ねれば、歩くことも難しくなり、また、眠たくもなるというのです。心身が充実している若い時から、仏法を聞くように心がけなさいとのお諭しです。また、蓮如上人は、次のようなお言葉も遺されています。「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。」仏法のことは、明日聞けばよいというものではない。仏法のことは急ぎなさいとのお諭しです。

仏法を聞く、仏様のみ教えを聞くというのは、何を聞くのでしょうか?なぜ、後回しにしてはいけないのでしょうか?それは、この私自身の命の問題の解決を聞かせていただくからです。私達は、自分自身の命について、安心できるものを持っていません。もし、明日死ぬことになった場合、生まれてきてよかったと、自分自身の命に合掌できるもの、また、命の意味をしっかりと確認し、死もまたありがたいと安心できる世界を持っているでしょうか?多くの人は、何のために生まれ、何のために生き、何のために死ぬ命なのか、真剣に考えたこともないのではないでしょうか?自分の都合のために生き、地位や名誉、財産欲を満たすだけの人生を勝ち組とし、死に対しては、しょうがないと無関心であり続けようとする人生を生きていないでしょうか?

仏様のみ教えを聞くというのは、自分の現在地が知らされ、生きる方向性が与えられていくということなのです。迷いの凡夫であることが知らされ、お浄土へ向かった人生が恵まれていくということです。仏法を聞かないということは、自分が何者かも知らず、人生に方向性も持たず、ただ煩悩に振り回され、さまよい続けるだけの虚しい時間が過ぎていくということです。蓮如上人が言われるように、これは、急がなければなりません。明日、いや、今日にも、死が訪れるかも知れないからです。自分の現在地も知らず、お浄土に向かって進み出していない命は、当然、お浄土に生まれることなどできません。同じように、さまよい続けるしかないでしょう。

仏法に出遇い、自分の人生の方向性が定まった人は、大切な方にも、仏法に出遇って欲しいと願います。なぜなら、大切な方も一緒に同じ方向を向いて、同じ道を歩んで欲しいからです。それは、純粋に、一緒に幸せになってほしいという願いでしょう。浄土真宗のお寺という場は、仏法に出遇った多くの方々の清らかな願いの結晶です。この私が、仏法に出遇うために、用意されている場がお寺なのです。もう遅い、ということはありません。一日でも早く、お浄土への道を歩み始めましょう。

2024年2月1日

「読誦(どくじゅ)」

【住職の日記】

明けましておめでとうございます。今年も、お念仏薫る中に、悲喜交々の日々を有り難く頂戴して参りましょう。

さて、先日、ある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

 「御院家さん、先日は、お取り越し報恩講のお勤め、ありがとうございました。一年生になる孫と一緒にお正信偈のお勤めが出来て、本当に有り難いご縁でした。孫が、聖典を持って、一緒にお勤めしてくれたのは、うれしかったのですが、お勤めの途中、孫は、残りのページ数がどれくらいあるか、何度もページをめくって確認するんです。早く終わってほしかったのでしょうね。でも、それを見て、私もご縁をいただいた最初の頃は、同じ事をしていたなぁと微笑ましく思いました。孫も、私と同じ道を歩んでくれているなぁと思うと、うれしかったです。」

とても、ほっこりするお話を聞かせていただきました。お勤めというのは、決して楽しいものではありません。内容の分からないものを、姿勢を正し、声に出して読み続けるというのは、大人でも大変なことだと思います。まして、文字を習い始めたばかりの小学一年生にとっては、なおさらのことでしょう。

お勤めは、正式には「読誦(どくじゅ)」と言い、阿弥陀如来のお浄土へ往生するための正しい行いの一つに数えられるものです。親鸞聖人がとても尊敬されている、善導大師(ぜんどうだいし)という中国の唐の時代に活躍された高僧は、阿弥陀如来のお浄土へ往生するための正しい行いとして、五正行(ごしょうぎょう)という五つの行いを示されています。この五正行の中に、読誦が含まれています。お経を声に出して拝読するお勤めは、お浄土に往生するためには、正しく心がけていかなければならない大切な行いなのです。

仏教というのは、本来、この正しい行というものを積み重ねることによって、正しくない自分自身を正していくことを教えるものです。正しい行いをし続けることによって、正しい在り方である仏様へと近づいていく道を教えているのが仏教です。しかし、これを実行していくことは、かなり難しいことなのです。読誦も、ただ声に出してお経を読んでいればよいというものではありません。正しい行いというのは、正しい心が伴っていなければならないのです。姿勢を正し、声に出してお勤めをしていても、その心の中が仏様とはまったく別のことで占領されているのなら、正しい行いをしたことにならないのです。本来の読誦は、心に仏様のことを一心に純粋に思いながら、お勤めをすることなのです。

しかし、私たちの心は、なかなかそのようにはなっていきません。表向き、きちんと姿勢を正し、丁寧にお勤めをしているようでも、心の中は、仏様とはまったく別のことを考えています。早く終わらないかなぁと考えながら、残りのページ数を気にする姿は、私たちが、どれほど正しい行いからかけ離れた存在かを物語っています。親鸞聖人ご自身も、そのことに深く悩まれ、自分自身に絶望していかれたのです。そして、その絶望の中で出遇っていかれたのが、阿弥陀如来の本願でした。

阿弥陀如来の願いは、どうしようもない我が子の幸せの実現です。阿弥陀如来の慈しみの眼差しは、どうしようもない存在にこそ向けられているのです。姿勢を正し、お経を拝読しながらも、残りのページ数を気にする人間を、切り捨てるような仏様ではありません。むしろ、そういったどうしようもない人間を、愛してくださるのが、本当の仏様なのです。愛してくださるというのは、決して見捨てることなく、必ず責任をもって、そのどうしようもない人間を育ててくださるということです。

私たちは、お勤めをすることを通して、実は、阿弥陀如来様からのお育てをいただいているのです。残りのページ数が気にならなくなった私がいるのなら、それは、私の行いの積み重ねの結果ではありません。阿弥陀如来の深い願いが、私を育ててくださった結果なのです。どうしようもない私が、不思議にも変化している姿の上に、仏様の働きを実際のものとして味わっていくのです。これが、仏様との出遇いです。

親鸞聖人は、一生懸命姿勢を正しながら、残りのページ数を気にしてしまう、そのどうしようもない姿は、阿弥陀如来に温かく抱かれている有り難い姿であることを教えてくださいました。

仏縁の中にある姿というのは、それがどんな姿であれ、本当に尊いことです。大切なお子さんやお孫さんと一緒に、温かいお慈悲に抱かれていく幸せな日々を、大切に心がけていきたいものですね。

2024年1月1日

「仏様を讃えるお念仏」

【住職の日記】

先日、ある御門徒宅でのご法事でのことでした。お勤めをさせていただき、その後、いつものように御法話をお話させていただきました。御法話を話終えた時、お参りされていたご親戚の男性の方が、拍手をされました。隣に座っておられた奥様が、すかさず拍手をするご主人の手を押さえられ、小声で「やめてください」と拍手を止められたのです。それに対して、ご主人は、「よかったんやから、ええやないか」と納得できないご様子でした。

御法話を聞かせていただく作法としては、拍手しないのが正解です。その理由は、大きく二つあるように思います。

一つは、御法話というのは、お取り次ぎだからです。「お取り次ぎ」というのは、仏様のお話を取り次いでいるという意味です。講演会で聞くお話は、講師の経験を元にした、講師が知る世界が披露されます。有名な講師ほど、他の人が経験し得ない貴重な経験をされ、他の人が知り得ない世界を知っておられるということでしょう。その講師からお話を聞かせていただき、感動をいただいた場合、その講師を讃える意味で、大きな拍手が送られるのです。

しかし、僧侶がお話する御法話は、僧侶自身の経験を元にして、僧侶が知り得る世界を披露しているのではないのです。御法話というのは、仏様が経験されたお悟りの世界を、経典から僧侶が聞かせていただき、それを、僧侶が取り次いでいるだけなのです。もちろん、経典の言葉を、そのままお伝えするだけでは、伝わらないことが多いでしょう。そこに、僧侶が日常生活の中で経験した例え話を交えたりする法話のテクニックが入ります。しかし、御法話は、例え話が中心ではありません。例え話だけを聞いていたのでは、結局人の経験を聞いているだけに過ぎません。御法話は、仏様が経験された世界を聞かせていただくところに、大切な意味があるのです。どんなに上手な例え話であっても、例え話をする僧侶を讃えるということがあってはなりません。私達が、本来、讃えなければならないのは、僧侶ではなく仏様なのです。

二つには、その仏様を讃えるということ自体、実は、人には出来ないということです。讃えるというのは、とても難しいことなのです。例えば、日本には、叙勲制度があります。様々な分野で国家に貢献された方に対して、その人の功績に応じた勲章が授与されます。勲章が授与された方を讃えることを考えてみたいと思います。もし、勲二等にあたる勲章を受賞された方に「勲一等の受賞、おめでとうございます」と讃えたとしたら、これは、讃えたことになりません。讃えるどころか、嫌みになります。逆に「勲三等の受賞、おめでとうございます」と讃えても、本人を貶すことになります。讃えるというのは、その人の本質、その人の素晴らしさや輝きを正確に受け止め、その功績にふさわしい言葉で讃えなければ、本当に讃えることはできないのです。

仏様を讃えることができないというのは、私達には、仏様の本当の素晴らしさや輝きは正確には分からないからです。仏様を讃えることが出来るのは、仏様だけです。『仏説阿弥陀経』の中には、十方の様々な諸仏方が、阿弥陀如来を讃えておられる様子が説かれていきます。仏様同士でしか成しえない行為が、仏様を讃えるという行為なのでしょう。

しかし、阿弥陀如来を讃える言葉が、お釈迦様によって経典の中に示されているのです。その言葉が、「南無阿弥陀仏」です。親鸞聖人は、『尊号真像銘文』というお書物の中で「南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり」と仰っておられます。私が、「南無阿弥陀仏」と称えたら、阿弥陀様をほめたことになるというのです。私には、仏様、阿弥陀様をほめる言葉を紡ぎ出していくことはできません。しかし、お釈迦様から阿弥陀様をほめることになる言葉を与えてもらっているというのです。

拍手は、仏様を讃える行為ではなく、人である僧侶を讃える行為です。また、煩悩に振り回されていく凡夫である私達には、仏様を讃えること自体が難しいのです。しかし、「南無阿弥陀仏」の一言は、仏様自身が紡ぎ出した仏様を讃える言葉です。この六字の言葉の中には、無量の徳が込められています。一言称える中に、仏様の様々な働きが、私の命の上に満ちてくださるのです。

御法話は、僧侶が取り次ぐ仏様のお話です。仏様のお心に感動し、拍手ではなく、仏様を讃えるお念仏を申すことを心がけましょう。

2023年12月1日

「自己肯定感」

【住職の日記】

先日、保育園関係の研修会で、自己肯定感についてのお話を聞かせていただきました。日本人は、世界の中で相対的に自己肯定感が低いそうです。自己肯定感とは、自分の存在をありのままに認め、その自分を好意的、肯定的に受け止めることができる感覚を言います。二〇一六年に、日本の小学四年生~高校三年生の子どもを対象として自己肯定感の有無を調査したところ、五割を超える子どもが、自分のことが嫌いと答えたそうです。日本人の低い自己肯定感の背景には、敗戦の歴史や遺伝子的な問題等、様々に考えられるそうですが、自己肯定感は、その人の心がけで、いつからでも高めていけることができると言います。また、自己肯定感が高い人は、自分を尊重するように、同じように相手のことも尊重できるのだそうです。自分を認め、人を認められる姿が、自己肯定感の高い人の姿だそうです。

お話を聞かせていただいて、疑問に思うことがありました。本当の自己肯定感というのは、仏教を抜きにしては語れないのではないかということです。人は、必ず年老い、病に罹り、死んでいかなければなりません。老いていく私、病に苦しんでいく私、死んでいく私、これが、ありのままの隠しようのない本当の私です。年老い、病に罹り、死んでいく私を、ありのままに認め、好意的、肯定的に受け止めることが、心がけ一つで出来ていくでしょうか。これが、人の心がけ一つで出来ていくならば、お釈迦様のご苦労も、親鸞聖人のご苦労もなかったことでしょう。

仏教というのは、本当の自己肯定感、本当の自分を取り戻す道だということができます。お釈迦様は、お城に住む王子様であった時、老いて病んで死んでいく自分自身の姿について、深く苦悩したことが伝えられています。それは、本当の自分をありのままに認めることが出来ない苦しみです。人生における苦しいことや嫌なことは、逃げることが出来たり、時間が経過し状況が変化すれば解決することがほとんどです。しかし、自分からだけは逃げることができません。また、老い、病み、死んでいくという自分が抱える状況は、けっして変わることはありません。親鸞聖人も、生死出づべき道に苦悩し、比叡山での修行に行き詰まり、法然聖人のもとに救いを求めに行かれたことが、奥様の恵信尼様のお手紙に記されています。「生死出づべき道」というのも、若き日のお釈迦様が苦悩された本当の自分を認めることの出来ない状況からの脱却の道のことです。

私の人生は、何のためにあるのか、考えたことがあるでしょうか?楽しむことが、人生の目的になっていないでしょうか。お釈迦様は「人生は苦である」というお言葉を遺されています。これは、人生は、楽しむためにあるのではないということを示されたお言葉です。人生の目的は、楽しむことではありません。人生は、本当の自分を取り戻し、真実に目覚めていくためにあるのです。

親鸞聖人が歩まれたお念仏の人生も、楽しむためではありません。生老病死を抱えるありのままの自分を、ありがたいものとして味わい、真実に目覚めていくための人生が、お念仏の人生です。お念仏の人生とは、どこまでもお念仏が中心です。仕事をしながらお念仏を申すのではありません。食事をしながらお念仏を申すのではありません。お念仏を申しながら仕事をし、お念仏を申しながら食事をし、お念仏を申しながら日常生活を送るのです。お念仏とは、仏様そのものです。仏様は、お仏壇にだけいらっしゃるのではありません。お浄土でじっと私を待っておられるのでもありません。言葉となって、私のところにいらっしゃるのです。言葉の仏様は、人生を通じて、私を育ててくださいます。どんな時も、私を呼び覚まそうと響き続けてくださいます。自分で自分を見捨ててしまいそうになる絶望的なことがあっても、仏様だけは、けっして私を見捨てたりしません。お念仏の人生を歩む人は、仏様によって自己が肯定されていくのです。

親鸞聖人は、自らを「罪悪深重の凡夫」と呼ばれ、「愚禿釈親鸞」と名告っていかれました。「愚禿」というのは、どうしようもない愚か者という意味です。「釈」というのは、お釈迦様の一族として、正式な仏弟子として認められていることを表わしています。どうしようもない愚か者でありながら、仏様から見捨てられていない存在であることの表明が、「愚禿釈親鸞」という名告りでしょう。

年老い、病み、死が現実のものとして近づいてくる時も、けっして自己肯定感が失われていかない人生が、お念仏の人生です。大切にお念仏を申していきましょう。

2023年11月1日

「法事ノート」

【住職の日記】

最近は、二世帯が同居しないことが当たり前になりました。おじいちゃん、おばあちゃんが、一緒の家に住んでいない核家族がほとんどです。二世帯が同居していた時代は、仏事に関することも、自然と次の世代に伝わっていましたが、現在は、親の世代が亡くなったことをご縁に、はじめて仏事に関わる人が増えてきました。

そんな中で、先日、ある御門徒のご法事で、とても有り難いお姿に出会うことがありました。そこのお宅も、何十年と親世代と子ども世代とが、別々に家を持ち暮らしている状況です。子ども世代が、遠方に暮らしていることもあり、ご法事でも、子ども世代のご家族は、今までお参りされていませんでした。そんな中で、親世代が、ある日、急に亡くなったのです。
葬儀までは、様々な意味が分からなくても、葬儀社の方々が進めてくれます。また、葬儀社の会館を使用すれば、ご自宅のお仏壇を触ることなく、仏事を勤めることができます。おそらく、最近のご遺族の方々は、仏事を勤める意味も分からないまま、葬儀社に流されるように、火葬まで終わっていくことが多いのではないでしょうか。

一年後、一周忌を迎える少し前に、お電話でご案内をいただきました。一周忌からは、お仏壇のあるご自宅でお勤めしたいということでした。一周忌をお迎えした日、お約束通り、ご自宅にお参りをさせていただきました。お仏壇の前に座らせていただいた時、驚きました。お仏壇のお荘厳が、完璧だったのです。完璧にお荘厳されたお仏壇というのは、正直なところ、最近は少なくなりました。蝋燭の本数が違っていたり、供物の位置が違っていたり、余計な物が置かれていたりと、御門徒の方々の迷いが、そのままお仏壇のお荘厳に表われていることが多いのです。見たところ、ご親戚の方々はお参りされていません。今まで仏事に関わってこなかった若い世代の方々だけで、どうやってここまで完璧にされたのかと不思議に思ったことでした。

すると、施主様からすぐにお尋ねがありました。

施主
「お仏壇のお飾りで、どこか間違っているところはないですか?」
住職
「いいえ、完璧ですよ。とても綺麗にお荘厳されていると思います。どなたかに教えていただいたのですか?」
施主
「昨日の夜、自分達だけでやってみたんです。自分達は、何も分からなかったんですが、亡くなった父親が法事ノートを作っていたんです。そのノートを開いてみると、お仏壇のお飾りについても、図入りで細かく指示されていました。意味が分からないところは、インターネットで調べたりして、何とかここまでお飾りをしました。子どもの頃、法事の前になると、いつも父親が、ノートを一生懸命見ていたことを思い出したんです。そのノートを開いてみると、何度も書き加えられた跡があって、父親も、色々と苦労しながら、親の法事を勤めていたんだなと思いました。」

お仏壇のお荘厳というのは、阿弥陀如来のお浄土の世界を形で表現するものです。それは、仏様のお心によって整えられていく秩序の世界です。迷いや混乱は、無秩序です。お荘厳が乱れるというのは、人間境涯の無秩序な迷いや混乱を仏様の世界に持ち込むということでもあるのです。きちんと仏様のお心によって秩序立てられたお仏壇の前に座ることによって、仏様のお心を敬うことができるのです。

仏事というのは、仏様のお心に出遇い、仏様のお心によって知らされてくる世界をいただくところに大切な意味があります。しかし、そこには「敬う」という心が、具わっていなければなりません。敬うというのは、ただ単に大切にするという意味ではありません。それは、教えに順うという意味が含まれているのです。自分を超えた世界に出遇い、その世界に頭が下がり、その世界が教えてくださる言葉に、自らを委ねていくのです。

分からない中でも、何とか正しいことをさせていただこうとする姿勢の中に、仏様を敬う心が伝わっていることを感じ、とても有り難いことでした。それは、言い換えれば、ちゃんとそこに、仏様が働いてくださっているということでしょう。

お参りされるご親戚が少なくなり、お斎も用意されなくなるなど、ご法事の形は、時代と共に変わっていきます。しかし、形はどんな風になったとしても、仏様を敬う心だけは大切にさせていただきたいものです。

2023年10月1日

「私は何をすべきか」

【住職の日記】

先日、お寺に一本の電話がありました。それは、次のようなご相談の電話でした。

「突然、お電話して申し訳ございません。私は、老人施設に入っている者です。もうあまり長くは生きることができないと思っています。いよいよ、自分の死が現実のものになってきて、自分の生き方や死の受け止め方について、色々と悩むようになりました。私の実家は、浄土真宗ですが、お恥ずかしながら、教えを聞く機会がないまま、こんな歳になってしまいました。何か自分が安心できるものが欲しくて、インターネットで死生観について検索してみましたが、ほとんどがキリスト教のものばかりが出てきます。キリスト教の死生観についても、一通り、色々と読みましたが、何かしっくりきません。やっぱり、自分には実家の浄土真宗が合うのかと思い、『歎異抄』を一通り、読ませていただきました。浄土真宗の死生観について、インターネットで検索していると、正法寺様のホームページが目にとまりました。電話番号が書かれてあったので、思い切って電話してみました。死が浄土に生まれるご縁であることは分かるのですが、死を迎えるまで、何をして生きるのが正しいことなのですか?私は、残りの人生、何をすればよいのでしょうか?」

人は、自分自身の死と向き合ったとき、初めて、自身が抱える命の問題に出会うのかもしれません。多くの命がある中で、自分が死んでいくことを知っているのは、人だけだと言います。死んでいく自分は、何のために生まれてきたのか、死んでいく人生にどんな意味があるのか、答えようのない根本的な命の問題と向き合うのが、人らしさであり、人だけが持つ宗教の営みが、ここにあります。

宗教という言葉は、現代では、あまりに多くの意味を含んでいます。いわゆる世間の常識から逸脱している価値観を教えるものは、すべて宗教という言葉でくくられます。それが、本当に人の人生を正しい方向に導くものかどうかは、問われることはありません。信じるか信じないかは、個人の自由なのです。自由であるというのは、とても大切なことですが、それは、個人個人に大きな責任が課せられているということでもあります。選んだ宗教によって、人生が破壊されるようなことがあっても、誰も責任をとってくれません。それもまた個人の責任です。

それでは、人生を正しい方向に導く宗教と人生を破壊していく宗教との違いは、どこにあるのでしょうか?正しいというのは、安定している状態のことをいいます。不安定な状態は、正されなければならない状態であり、正しい状態とは言えません。生と死に関して言えば、生も死もどちらも有り難いものとして受け止めていれば安定しています。そこに不安はありません。しかし、生だけが有り難く、死は無意味で悲惨なものと受け止めているならば、それは、不安を抱えた状態です。生を支えるものだけを求めさせるものは、人生を破壊していきます。なぜなら、死のない生はあり得ないからです。生も死も有り難いと言える世界が開かれてこそ、本当の意味で、人は安定した状態に導かれていくのです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、お念仏を申す人生を歩むことが、正しい方向に導かれていくことだと教えてくださいました。また、そのことが本当であることを、ご自身の九十年のご生涯を通じて証明してくださいました。親鸞聖人に、人生において、私は何をすべきかと問えば、お念仏を申すことだと仰るでしょう。

お念仏とは、阿弥陀如来が言葉になって、私に寄り添っている姿です。寄り添うというのは、人生の様々な場面を通して、私を呼び覚まし続けるということです。仏様の安定した悟りの世界が、不安定な私を、正しき方向へと呼び覚ましていくのです。悲しいことがあれば、悲しみの中に響くお念仏の声は、悲しみの中にも合掌していける意味があることに気づかせてくださいます。嬉しいことがあれば、喜びの中に響くお念仏の声は、欲を満足させるのではなく、感謝の念をもたらせてくださいます。私達は、モーターボートのように身軽ではありません。積年の罪と障りをいっぱいに乗せた石油タンカーのようなものです。お念仏の人生は、ゆっくりゆっくりと、私を、方向転換させてくださるのです。

自分の生と死にまじめに向き合い、お念仏を申す中に、安定した正しき方向へと歩む日々を大切にさせていただきましょう。

2023年8月31日