「三途の川」

【住職の日記】

先日、ある御門徒宅に七日勤めにお参りした時のことです。ご遺族の方から、次のようなご質問をいただきました。

「御住職、よく三途の川を渡ると言いますが、主人は、もう無事に三途の川を渡ったでしょうか?それと、やっぱり、四十九日の間は、この辺りを迷っているのでしょうか?主人のことが心配で・・・」

大切な方との今生の別れは、どんな人にも深い悲しみと決して小さくはない後悔を遺していきます。日本において、その悲しみと後悔を癒す大きな役割を果たしてきたのが、仏教でした。その中でも、死後四十九日まで続く七日ごとのお勤めは、遺族の方々の悲しみと後悔を癒やしていくのに、特に大切にされてきた仏事です。

元々は、四十九日まで続く七日ごとのお勤めは、インドの小乗仏教で説かれた中陰思想に基づいています。小乗仏教では、人間が死ぬと、次にまた生まれ変わると考えます。生まれ変わる世界は、天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界です。その人の生前中の行いによって、この六つの世界のどこかに生まれると考えます。しかし、すぐには生まれ変わりません。生まれ変わるまでには、ある程度の時間がかかると考えるのです。それが、七日です。最初の七日、初七日までに生まれ変わる先が決まらない人は、次の七日目、二七日に決まります。二七日に決まらない人は、次の七日目に、、、という具合に、七七日、四十九日までには、どんな人も次の生まれ変わり先が決まると考えるのです。今生から来世に移り変わるまでの中間的な存在を、中陰と言います。七七日は、中陰が満ちるということで、満中陰というのです。

この中陰思想が、インドから中国に入ってきます。その時、中国独自の十王信仰と重なり、七日ごとに十人の王から裁きを受けるという考え方に変化します。有名な閻魔大王は、五回目の七日目、五七日に裁きを下す王として登場します。三途の川というのも、この時に中国で成立した考え方です。三途というのは、地獄界・餓鬼界・畜生界の三つの悪道のことです。三途の川を渡るというのは、四十九日の間に、とりあえずこの三つの悪い世界には墜ちずに済んだことを表わすのです。そして、この中陰思想に追善供養という考え方が加わっていきます。生きている人が、亡くなった方に善い行いをプレゼントできるという考え方です。亡くなった方が、できるだけよい裁きを受け、天上界や人間界に生まれ変われるように、今生きている者が、亡くなった方の代わりに善なる行いを積み、その功徳を亡き方にプレゼントするのです。四十九日まで続く七日ごとのお勤めは、この追善供養として考えられてきたのです。

しかし、この多くの人々の悲しみと後悔を癒やしてきた中陰思想と追善供養の考え方を、親鸞聖人は、強く否定をしていかれました。お釈迦様が説かれた仏教は、人間界に留まったり、天上界に生まれることを教えるものではないからです。また、自分さえも救えない私には、自分以外の者を救うだけの本当の善なる行いは不可能だと自分自身を深く見つめていかれたからでした。

そして、本当の意味で人の悲しみと後悔を癒やしていく力は、人の力ではなく、阿弥陀如来の願いの力にあると見ていかれたのです。親鸞聖人は、死後の裁きを畏れて、自分勝手に描いていく善悪の世界に振り回されてはいけない。ただ、お念仏を申す人生を大切に生きなさいと教えてくださいます。お念仏を申す人生とは、阿弥陀如来の慈愛に抱かれていく人生です。どんな存在も、一人子のごとく愛され願われているのです。亡くなっていった方も、閻魔大王から裁かれる存在ではなく、阿弥陀如来から愛され願われる掛け替えのない仏の子としての意味をもっているのです。

故人を大切に思っている人ほど、悲しみや後悔も大きなものとなることでしょう。しかし、それは、阿弥陀如来に出遇っていく掛け替えのないご縁でもあるのです。人は、自力の虚しさに直面するとき、仏様の働きの尊さに出遇うことができるのです。浄土真宗において、四十九日までの七日ごとのお勤めは、悲しみと後悔の中に沈む人が、お勤めを通して、心配のない阿弥陀如来の深いお慈悲に出遇うためのものなのです。それは、大切な故人からいただいた掛け替えのない仏縁です。故人は、悲しみや後悔だけを遺して去っていくのではありません。悲しみや後悔の中に、清らかな慈しみの働きを響かせてくださるのです。

お勤めは、故人のために私がするものではなく、故人が、私のために仏様のお心を聞かせてくださっているのです。共々に、仏様の温かいお慈悲の中にあることを、大切に聞かせていただきましょう。

2024年3月5日