「本堂という空間」

【住職の日記】

先日、宗祖親鸞聖人の降誕会の御法要に合わせて、大内光輪保育園の年長組の子ども達が、三年ぶりに正法寺にお参りしてくれました。大内光輪保育園は、山口市大内にある正法寺が運営に関わる保育園です。正法寺から離れた環境にありますが、浄土真宗のみ教えを保育の柱とし、阿弥陀如来様のお心の中で育まれる宗教的情操教育を大切にしています。年長組になると、親鸞聖人の降誕会と御正忌報恩講の二回のご縁には、毎年、正法寺にお参りしてもらっていましたが、コロナ禍が始まってからは、集団でバスに乗ることも自粛せざるをえない状況が続いていました。いまだコロナ禍は収束していませんが、様々な感染症対策が充実してきたこともあり、この度、三年ぶりに正法寺へ参詣することができたのです。

大内光輪保育園の子ども達にとって、お寺という存在は、日常生活の中にはないものです。保育園のホールには、阿弥陀如来様が御安置されてあり、毎朝、子ども達もお勤めをし、礼拝の時間を過ごしています。しかし、お寺となると、子ども達にとっては、想像のできないまったく未知の存在になります。コロナ禍の前までは、昨年の年長組の子ども達から、お寺の様子を聞くこともありましたが、今年の子ども達には、その経験もありません。そんなお寺初体験の子ども達の反応が、とても素直でかわいらしく、改めて、私達にお寺の有り難さを教えてくれるものだったのです。

本堂に入るなり聞こえてきた子ども達の声は、「わ~、いい匂いがする~」「ピカピカしてる~」というものでした。住職の話が終わり、少し落ち着いてくると、色んな質問が、あちらこちらから飛びだしてきます。「この大きなお家、理事長先生が、一人でお金出したん?」というものや「なんで、ここに龍がおるん?」「なんでピカピカしてるん?」「あれは誰?」「これは何?」と、いつまでも様々な質問が止まることがありませんでした。目をキラキラさせて、色んなことを尋ねてくれる子ども達の姿に、とても嬉しい気持ちにさせてもらったことでした。

本堂というのは、子ども達が素直に感じたように特別な空間です。それは、日常生活では味わえない仏教徒の感動がいっぱいに詰まっているからなのです。お釈迦様は、お説法されるのに、特別な空間を準備されることはありませんでした。木の下や岩陰など、暑いインドにおいて、どこにでもある過ごしやすい普通の場所で行われたのです。しかし、お釈迦様がお説法されれば、普通の場所が、普通の場所のまんま特別な場所になるのです。それは、悟りを開かれた仏様の立ち振る舞い、紡がれる言葉、お釈迦様から発せられる一つ一つのものが、聞く者に感動をもたらし、敬いをもたらしていったからです。多くの仏教徒達が経験した特別な空間は、お釈迦様が入滅された後も、仏様を敬い礼拝する場所として再現されていったのです。

本堂という空間は、五感全てで仏様というものに出遇える場所です。そこで香る匂い、耳に聞こえてくる音、目に入る様々な風景、肌で感じる空気、あらゆるものが、仏様のお心であり働きです。難しい理屈を理解できなくても、仏様自身が、私に働きかけてくださるのです。

本堂初体験の子ども達は、この特別な空間があること自体に驚いている様子でした。純粋な子どもの驚きの中に、本堂が用意されていることの尊さを感じます。本堂を護ってこられた数知れない御門徒の方々は、ご自分のためだけに本堂を護られたわけではないでしょう。子や孫をはじめ、未来に生まれてくる数知れない人々が、仏様に出遇っていくことを、心から願っておられたのではないでしょうか。他でもない、本堂は、この私のために用意されたのです。

世間では、自らの都合が満たされていく人生のことを幸せな人生と言います。何の苦労もなく思いのままになる人生を、人はうらやみます。でも、人にとっての本当の幸せは、仏様に出遇うことなのです。思いのままになる人生を求めていく先にあるのは、虚しさでしょう。思いのままにならない老いと病と死は、けっして避けることができないからです。私の老いも病も死も、仏様は、大切に慈しんでくださいます。思いのままにならない中にも、大切な意味があることを教えてくださいます。仏様に出遇うというのは、けっして揺らぐことのない本当の拠り所に出遇うことなのです。

世間の中だけで人生を終えていくことは、本当にもったいないことです。多くの先人の方々が、私の為に遺してくださった本堂にお参りをし、仏様に出遇い、たくさんの感動をいただく毎日を大切にさせていただきましょう。

 

 

2022年6月1日