「本当の幸せ」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の方から、正法寺が母体となって運営する大内光輪保育園に、お孫さんを入園させたいというご相談をいただきました。山口市は、十年ほど前から保育園に入園を希望しても入園できない待機児童が発生し続けています。そんな中、どこかに入園したいという切実な訴えをされる方も、たくさんおられるのです。

しかし、この度、ご相談いただいた御門徒の方は、お孫さんを入園させたい理由を、「息子達が困っているから」ではなく「仏様に手を合わせる保育園で育ってほしいから」とおっしゃったのです。またそれは、息子さん夫婦も同じ考えであることも教えてくださいました。親の仕事のために保育園入園を切実に考えている人が多い中、お孫さんが仏様に手を合わせることを切実に願ってくださっている姿に頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

手を合わせる作法は、元々はインドの作法です。今でもインド人の方々は、人に挨拶をされるときには、手を合わせて頭を下げられます。これは、敬いの心を表す作法だと言われています。敬うというのは、尊ぶということです。ただ大切なものというだけでなく、頭が下がる尊いものに出会っている感動を表しているのです。

仏教では、真と偽をはっきりと区別します。真とは、本当のことです。ありのままということです。偽とは、人が為すと書いて偽物を意味します。人が為すことは、偽物であり真実ではありません。人は、その人特有の色眼鏡をかけています。自己の都合を貪る我執が、物事の姿をゆがめてしまうのです。偽物の中で生きる者は、ありのままの真実に出会うと感動します。そして、偽物は、本物の前に力を失います。ただただ感動し、喜びに包まれ頭が下がっていくのです。私達が心動かされるのは、ありのままの自然の姿やありのままの清らかな命の姿、そして、ありのままの清らかな心など、誰かの我執が微塵も混じっていない清らかな真実に出会った時でしょう。人生における幸福は、このような頭が下がる真実に出会っていくことなのです。
人生は、思いのままにはならないものです。どんな人間も、自己の都合が叶い続ける人生などあり得ません。浄土真宗の根本経典である『仏説無量寿経』には、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。・・・尊貴・豪富もまたこの患ひあり。・・・貧窮・下劣のものは、困乏してつねに無けたり。田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。」とあります。

土地や家などの財産を持つ経済的に豊かな者は、それらの所有する財産について様々な悩みを生じます。それらの財産を持たない経済的に貧しい者もまた、財産を持たない状況について様々に悩みを生じます。持つ者も持たない者も、必ず悩みを抱えているというのです。求めるものが満たされれば幸せになるというのは、我執を持つ人間の幻想であることを、お経の言葉は教えてくださっています。

私達の宗祖、親鸞聖人は、世間的にはけっして満たされたと言える人生を歩んだ方ではありませんでした。数え年九歳で親元を離れ、比叡山に修行に出されます。その比叡山で二十年間の修行の末、大きな挫折を味わい、やっと出会えた恩師法然聖人とも、わずか五年で生き別れになります。さらに、三十四歳頃には、無実の罪で遠流に処され、僧籍を剥奪され罪人となります。八十歳を過ぎた晩年は、信頼していた長男に裏切られ、最期は、ご自分の家もお寺もなく、弟さんのお寺で臨終を迎えます。親鸞聖人が、現在のように浄土真宗の宗祖と仰がれ、誰もが名前を知るようになるのは、ご往生されて約二〇〇年後、子孫の蓮如上人のご活躍を待たねばなりませんでした。けっして功成り名を遂げて生涯を閉じていかれたのではないのです。誰からも知られることなく、何も持たずに、ひっそりとその苦難の生涯を閉じられたのです。

しかし、その親鸞聖人の言葉が、歴史の中で、数知れない人々の心を呼び覚ましていきます。それは、親鸞聖人が、欲を満たすことでは得られない、本当の幸せを持っておられたからでしょう。幸せな人の言葉は、人を幸せにします。親鸞聖人の笑顔は、時と空間を超えて私達にも伝染してくださるのです。

愛しい者の幸せを願う姿は、人間が持つ最も尊いものの一つでしょう。それだけに、本当の幸せを、きちんと聞かせていただく日々を大切にしましょう。

2022年8月1日