仏法は無我にて候

先日、正法寺が運営する嘉川保育園に、定時制高校の生徒十名が、職場体験に来てくれました。一昔前の定時制高校は、社会人が入学することも多かったようですが、現在は、ほとんどが一般の高校生と同じ年齢の子ども達です。しかし、現在の定時制高校は、不登校等の様々な問題を抱える中学生が、進学するケースも多いそうです。この度、嘉川保育園に職場体験に来てくれた生徒達も、そのほとんどが、中学生時代、不登校等の様々な問題を抱えた経験のある子ども達だということでした。

その中で、とても暗い目をした一人の男子生徒がいました。保育室に入っても、部屋の隅で座ったまま園児と関わろうとしません。やる気がないのではなく、自分から関わることに怖さを感じているようでした。おそらく、これまで様々な人間関係の中で、人知れない苦しみを抱えてきたのでしょう。怯えたような暗い目が、そのことを物語っているようでした。ところが、その男子生徒の顔が、とても幸せそうな穏やかな表情になった瞬間があったのです。それは、一歳の女の子が男子生徒の膝に座ったときでした。一歳の女の子は、遊びに来てくれた高校生のお兄さんに、ただ甘えたかったのでしょう。ニコニコしながら、そこに座るのが当たり前のように、ちょこんと男子生徒の膝に座ったのです。その瞬間、それまで暗い目をしていた男子生徒の顔が、照れたように赤くなり、とても穏やかな笑顔になったのです。職場体験が終わった時、その男子生徒に一言「よかったね」と声をかけさせていただきました。顔を赤くして「はい」と大きく頷いた恥ずかしそうな笑顔に、こちらも、とても幸せな気持ちをいただいたことでした。

本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人のお言葉に「仏法は無我にて候」というものがあります。仏教というのは、無我なるものに救われていくことを教えるものであり、また、自らも無我なる存在へと育てられるみ教えであるというのです。我というのは、「我を張る」や「我がまま」という言葉があるように、自分の都合を貪っていく煩悩の根本になるものです。我が、人を傷つけ、自らも傷つけていくのです。喧嘩というのも、お互いの我と我とがぶつかり合うことです。どちらかが、我を収めれば、喧嘩も収まります。しかし、実際は、我を収めるというのは、なかなか難しいことです。親鸞聖人も「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」とお言葉を遺されています。私達は、命終わるその瞬間まで、自らの我に苦しめられていく存在なのです。

自らの我に縛られ、我に振り回されていく私達は、何によって癒やされ救われていくのでしょうか。それは、無我なるものだと仏教では教えてくださるのです。人間の境涯で言うと、無我に近いものが、子どもです。個人差はありますが、小さな子どもほど、無邪気な姿を見せてくれます。行動に、余計な計算や計らいが混じりません。我の混じらない純粋な行動は、我を持つ者を和らげ包み込んでいきます。無我に近いものに触れると、人は、安らぎを覚えるのです。

親鸞聖人が、『教行信証』の中で、阿弥陀如来のお慈悲を「大地のごとし」と大地に喩えておられるお言葉があります。大地というのは、自己主張をしません。大地に拒まれる命はありません。どんな命も、大地というのは受け入れ、そして、育んでいくものです。人間を見て、一目散に逃げていく野生の動物はたくさんいますが、大地を見て逃げる動物はいません。どんな動物も、大地には安心して身を預けています。それは、大地が無我なるものだからです。我を持つものは、無我なるものに支えられ包まれているのです。

阿弥陀如来のお慈悲は、無我なる真実の心なのです。真実というのは、変わらないということです。子どもの純粋な心も、成長と共に我に汚されていきます。大地も形あるものである限り、永遠ではありません。また、大地は心を持っていません。しかし、如来様のお慈悲は、変わることのない無我なる心なのです。本来、仏法のご縁に触れるというのは、小さな子どもに、ほっと心が溶かされていくように、大地に動物が安心して身を預けていくように、如来様の無我なる言葉に触れて、自らの我が溶かされ安らぎを頂いていくと共に、苦しみ多いこの人生が、絶対安心なものに支えられ育まれていることを知ることなのです。

人間境涯は、我の渦巻く恐ろしい世界です。如来様の無我なるお心に触れていく温かい時間を大切にしたいものです。

2021年11月1日