涅槃(ねはん)

先日、二月十五日はお釈迦様の涅槃会でした。二五〇〇年前、お釈迦様が、そのご生涯を閉じていかれた日です。浄土真宗の寺院では、涅槃会をお勤めする寺院は少ないですが、宗派を問わず、世界の仏教徒にとって、お釈迦様が命終えていかれた姿は、とても大切な意味があります。

お釈迦様は、八〇才で、そのご生涯を閉じていかれました。今から二五〇〇年前、日本は、縄文時代中期に当たります。その頃の日本人男性の平均寿命は三十一才だそうです。文明の発達していたインドでは、もう少し寿命が永かったかも知れませんが、それでも大変なご長寿でしょう。息を引き取られたのは、クシナガラという町です。熱心な仏教徒であったチュンダという名の鍛冶職人が振る舞った「スーカラマッタヴァ」という料理による食中毒が原因で体調を崩されます。そして、サーラというツバキ科の二本の木の間に頭を北にして横たわり、そのまま息を引き取っていかれたと伝えられています。

仏様であったお釈迦様も、普通の人間のように、食中毒でお腹を壊され、亡くなっていかれたのです。しかし、お釈迦様の場合、命終えていかれたという事実を、側で看取られた誰もが「死んだ」や「亡くなった」という言葉で表現しませんでした。みんなが「涅槃に入られた」や「入滅された」という言葉で表現されたのです。それは、側で看取られた誰もが「死んだ」や「亡くなった」という言葉では、とても表現できないような命の終わり方を受け止めていかれたからでした。

涅槃(ねはん)というのは、インドの言葉でニルヴァーナを漢字に音訳したものです。ニルヴァーナというのは、一切の執われから開放された本当の安らぎの世界のことです。それは、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみを引き受けていく大慈悲と呼ばれる清らかな働きの実現を意味しています。入滅も煩悩が完全に滅せられた領域に入るという意味で同じことです。お釈迦様が食中毒で命終えていかれたとき、誰もが、そこに滅びや終わりを受け止めなかったということです。

命が終わるという現実は、仏様であったお釈迦様にも例外なく訪れました。命終わることだけではありません。病や老いも、誰もが経験していく現実を、お釈迦様も経験されたのです。仏様だから不老不死であったり、苦難を回避する超能力があったりするわけではないのです。仏様でも、病に襲われ、年老い、命終えていく現実は同じなのです。

それでは、仏様と私達とでは何が違うのでしょうか。それは、意味が違うのです。命終えるという厳しい現実の中に、私達とは違う意味を見ておられるということです。私達にとって、死は闇です。分からない不安な世界です。また、死は、私から大切なもの全てを奪っていきます。家族や財産だけでなく、一番大切な私の命そのものを無残に奪っていくのです。人間にとって、自分の死ほど恐ろしいものはないでしょう。これが、私達にとっての死の意味です。

しかし、お釈迦様は違ったのです。死は、闇ではなく光だったのです。側で看取られた人々に、死は光であることを思わせるような最後だったのです。現実は同じでも、意味が違えば世界は変わります。仏様の言葉を聞かせていただくというのは、仏様が受け止めておられる意味を聞かせていただくのです。素直に聞かせていただいた仏様の言葉が、私の住む世界を変えていくのです。

親鸞聖人の『唯信鈔文意』というお書物に次のようなお言葉があります。
「ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。」

どんな人間も、阿弥陀如来の深い願いとその願いが込められた南無阿弥陀仏の響きを素直に聞かせていただければ、煩悩を抱えたまま、お釈迦様と同じこの上ない安らぎの世界、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみを引き受けていく大涅槃が実現していくというのです。私達は、お釈迦様のように悟りを開き、死も光であるような智慧を持つことはできません。しかし、できないままで、お釈迦様と同じ世界が恵まれていくというのです。それは、私にとって闇のような不安な世界は、私を慈しんでくださる阿弥陀如来によって見守られている世界でもあるからです。命終えていく不安な現実の上にも、お慈悲が満たされているのです。大丈夫だよと温かく包んでくださる世界があるのです。人間が住む世界ではなく、仏様が住む世界に生まれていく、そのことを喜ばせていただく日々を大切にさせていただきましょう。

2021年3月1日