六道

私達、浄土真宗の流れをくむ者にとって最も大切な御正忌報恩講が、今年も多くの方々の御報謝によって無事お勤めさせていただくことができました。まことにありがとうございました。
御正忌報恩講は、一言で言うと親鸞聖人のご法事です。親鸞聖人の二十五回忌の時、親鸞聖人の曾孫に当たる本願寺第三代目門主の覚如上人という方が、この法事を報恩講と名付けられました。それは、親鸞聖人の御恩に報いる集まりという意味です。
この度、三重県から布教使の内田正祥先生をお招きし、三日間にわたって本当に有り難いお取次ぎをいただきました。その中で、二日目の夜座、大逮夜のご縁に、六道の中での人についてお話しをくださいました。六道というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という仏教の世界観を説いたものです。迷いの存在は、この六世界を経めぐっていくというものです。善意を受け取る心を喪失し、あらゆるものが鬼となり、自らが苦しみの極まりに落ちていく地獄、足るを知らず貪り続ける餓鬼、恥ずかしさを忘れ欲望をむき出しにしていく畜生、他人を蹴落としていくことだけを求めて生きる修羅、有頂天になり物事の本質を見失う天、これらの世界は、誰もが落ちる可能性を秘めています。その中で、人という世界は、これら五つの世界に生きる在り方を省みて、自らの生き方を申し訳ないものとして自覚できる世界だといいます。そして、人の世界に住む者だけが、お寺にお参りし仏法に耳を傾けていくというのです。仏様の言葉に耳を傾けていくというのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・天の世界に住む者には決してできないことです。人の世界に住んでこそ、仏様の言葉は身に響くのです。
この度、そのことを目の前ではっきりと教えられたことがありました。それは、六道のお話を聞かせていただいた報恩講二日目の夜座が終わった後のことでした。参詣者も帰られ、後片付けが終わり、明日に備えて休もうとしていた午後十一時過ぎのことでした。お寺で飼っている猫が、鳴きながら帰ってきました。いつも、十一時前後に一度帰ってくるのですが、いつもと鳴き方が違いました。いつもは、二声ほどしか鳴かないのですが、その日は、何度も興奮したように鳴き続けます。何かあったのかと思い、慌てて部屋から廊下に出てみると、ものすごく大きなネズミが猫の足元に横たわっていたのです。猫は、飼い主に獲物を見てほしかったのでしょう。何度も嬉しそうに住職の足元にすり寄ってきました。その後、ネズミを口で咥えて、廊下の隅まで運び、そこでネズミの体を一心不乱に食いちぎって食べていました。猫の姿としては、自然なことです。しかし、報恩講の中日に、その姿を目の当たりにしたことで、色々と考えさせられたことでした。
私達人も、生き物を殺し、その肉を口にしていきます。他人が殺した生き物を口にすることも同じことです。生き物の肉を口にし、美味しいと微笑んでいく姿は、ネズミを食いちぎる猫の姿と何ら変わりはありません。しかし、違う点は、人の世界に住む者は、その姿を申し訳ないと慎んでいくことができるところだと思います。報恩講の三日間は、お寺では肉や魚は口にしません。それは、報恩講の三日間は、親鸞聖人の御遺徳を偲ぶ中で、普段の自らの生き方を省みて、慎んでいくからです。
数十年前までは、正法寺の報恩講は、朝・昼・晩と一日三食のお斎が用意されていたと聞かせていただきました。報恩講期間中は、子どもも大人も早朝からお寺に参詣をし、お精進のお斎を頂いて、学校や仕事場に向かっていたそうです。また、それぞれの御門徒のお家でのお食事も、三日間、お精進のお料理をいただかれていたとも聞かせていただきました。日常生活に追われる中にあっても、きちんと自らのあり方を省みて、慎み、教えに耳を傾けていく、そのような人間らしい生き方を大切にしておられたのでしょう。
報恩講期間中、お寺に住み、鐘の音を耳にしながらも、自らの姿を省みることなく、いつものように殺生をし喜んでいる猫の姿は、胸に痛みを覚えるものでした。なぜなら、私自身も、そんな畜生の世界に住む可能性を秘めていると改めて教えられたからです。仏法を聞くご縁をいただくことは、本当に難しいことだと思います。しかし、如来様は、決してあきらめず喚び続けてくださいます。自らを省みることのないものの姿を悲しんでおられます。
人としての心をいただきながら、獣のような一生を送ることは、自らの命に対する裏切りです。無常迅速の命を生きる私達です。お寺にお参りし、仏法に耳を傾けていくことを、努めて大切にさせていただきましょう。

2019年1月28日