「生死を超える」

先日、お寺のあるご法座の折に、御門徒同士が、次のようなお話をされているのを耳にしました。ご法座が終了し、それぞれにお帰りになられる時のことです。

「最後に、ご本尊にお参りして帰りましょう。」
「そうですね、なまんだぶつ、なまんだぶつ、今年もいいことがありますように、、、」
「ここは、そういうことをする場所ではありませんよ(笑)」
「少しぐらいいいじゃないですか。気持ちが和むのですから、、、」

御門徒同士の何気ない会話に、思わず聞き耳を立てて聞いてしまいました。お互いに笑いのこもった和やかな会話でしたが、浄土真宗のお寺ならではの有り難い光景だったと思います。

仏様にお願い事をするというのは、日本各地のお寺の風景としては、決して珍しいことではありません。お願い事を書いて仏様に奉納する絵馬があるお寺もありますし、家内安全や健康などの御利益を叶えることを目的としているお寺もあります。また、観光寺院をはじめ、人々が多く集まっているお寺ほど、人々の願い事に応える形をとっているように思います。これは、親鸞聖人がご活躍された八〇〇年前も、日本の仏教寺院というのは、そういう側面をすでにもっていたようです。しかし、このような人々の願いを叶えることを目的とし、現世利益を与えていくような仏教寺院の姿を、親鸞聖人は、きっぱりと否定されたのです。

そもそも、人というのは、どんな人も幸せを求めています。そして、その幸せとは、自分の願いが叶うことに他なりません。思い通りに人生が運ぶことができれば、それは幸せです。逆に、思い通りに人生が運ばず、苦労を重ね続けるような状態は、不幸です。家内安全、健康、恋愛、受験など、自分の思い通りの願いが実現するように、仏様にお願いをする、これは、誰もが持っている切なる感情でしょう。人は、皆が持ち、皆がしていることに対して、疑問を持つことはしません。当たり前のことに対して、疑問を投げかけたりは、普通はしないのです。しかし、永い歴史の中には、ほんの数人ですが、当たり前の中に疑問を持った方がいます。そのお一人が親鸞聖人です。色んな当たり前の中で日々過ごしている私ですが、一度立ち止まって、当たり前の中に疑問を持った方の言葉に耳を傾けてみることは大切な事です。

親鸞聖人は、人が当たり前の願いを持つことの、どこに疑問を持たれたのでしょうか。それは、本当の幸せとは何かということです。お釈迦様は、人生は苦であるとお示しくださいました。それは、言い換えれば、そもそも、人生というのは、自分の思い通りの願いは実現しない世界ということです。そのことを、大きく生老病死という四苦としてお示しです。人は、どれほど願いを叶えたとしても、必ず年老い、病に侵され、死んでいくのです。こればかりは、避けようがありません。健康であるように仏様に願いを掛けたとしても、必ず病に侵されていきます。家内安全を仏様に願ったとしても、必ず悲しい今生の別れは訪れます。そうすると、自分の思い通りの人生を求め続け、願い続けていく先に訪れるのは、どうしようもない失望と虚しさではないでしょうか。それぞれが、自分の願いを叶えることを求めていくことは、当たり前のことですが、必ずしも、本当の幸せにはつながらないということでしょう。

それでは、本当の幸せとは何でしょうか。それは、思いのままにはならない人生が、そのままで、ありがたいと思えるような世界に出遇っていくことでしょう。年老いる中、病に侵される中、死んでいく中にあっても、恵まれた自分だけの人生を、ありがたいものとして合掌していけるような、喜びに満ちていく世界があるのです。仏教では、そのような世界に出遇っていくことを、「生死を超える」といいます。そして、生死を超えることを二千年以上、求め続けてきたのが、本来の仏教徒の姿なのです。

私の願いは、必ず虚しい愚痴を生んでいきます。しかし、阿弥陀如来の願いは、あらゆる命を安らかにしていくのです。私もまた、その願いの中に慈しまれている掛け替えのない仏の子です。お寺は、私の願いを仏様に聞いてもらう場所ではありません。私が、仏様の願いを聞かせていただく場所なのです。阿弥陀如来は、私の本当の幸せを願い、お念仏することを教えてくださいます。阿弥陀如来の願いを素直に聞き受け、お念仏申す日暮らしの中に、思いのままにならなくても、生まれてきて良かったと、心から自分自身の存在を喜べる世界が開かれてくるのでしょう。

2018年3月7日