「浄土真宗のお寺が繁盛するとは」

【住職の日記】

先日、福岡県田川郡にある庵で、御法話をさせていただくご縁をいただきました。庵(いおり)というのは、元々、僧侶が暮らす小さな家のことを言います。お寺に住む住職だけが僧侶ではありません。お寺に住持せず、普通の家に住み、一般の仕事をしながら、阿弥陀如来様のお心をお伝えする教化活動に勤しんでおられる僧侶の方も少なからずおられます。この度、そんなご自宅で教化活動をされている、あるご縁のある僧侶の方からお招きに預かり、本当に尊いご縁をいただいたのです。

庵の中に上がらせていただくと、十畳から十二畳ぐらいの和室に、ご本尊の阿弥陀如来様が御安置され、寺院のような立派なお荘厳が設えてありました。お仏壇ではなく、本堂のお内陣のような立派な設えです。この部屋で、定期的に御法座や勉強会が開かれているということでした。住職がご縁をいただいた御法座は、永代経法要並びに庵主様の曾祖母に当たられる方の五〇回忌法要でした。庵主様は、元々日蓮宗の檀家の家で生まれ育ったそうですが、母方の曾祖母様の子守歌のようなお念仏に育てられて、やがて浄土真宗の僧侶になられたそうです。

寺院ではありませんので、特定の御門徒という立場の方々はいらっしゃいません。しかし、御法座の時間になると、コロナ禍にも関わらず、参詣者の方々で部屋がいっぱいになり、部屋に入りきれない参詣者の方々が、玄関の土間や廊下にも座られ、庵の中全体が、参詣者で溢れるような状態になったのです。しかも、年代も様々、性別も様々です。八〇歳代のお年を召された方もおられれば、三〇歳代の若いご夫婦もおられました。

休憩時間に、庵主様に、参詣者の方々についてお尋ねをさせていただきました。すると、いつもお参りしてくださる方々に加えて、庵主様も知らない方々がたくさんおられるというのです。重ねて、どういう形の広報活動をされておられるのかについてもお尋ねをいたしました。すると、有縁の方々に案内のお手紙を差し上げるぐらいで、ほとんどが口コミだとおっしゃるのです。ホームページや広告を見て、お参りされたのではないのです。お念仏を喜ぶ人々の口伝えで、ご縁の輪が広がっているのです。遠いところは、車で一時間程度かけて、お参りされている方もおられるということでした。遠近各地より、老若男女の方々が、ただただ阿弥陀如来様のお慈悲を聞き味わうために集まってこられる光景は、本来のお寺の原点を教えてくださる本当にありがたいものでした。

浄土真宗のみ教えを、日本全国に広めていかれた蓮如上人のお言葉の中に、次のようなものがあります。

「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。」

浄土真宗のお寺が繁盛するというのは、人が多く集まり活気があることが、繁盛していることではないというのです。一人でも阿弥陀如来様の真実のお心をいただき、お念仏を喜ぶ人が出てくることが、浄土真宗における繁盛だと言われるのです。実際には、蓮如上人が組織された本願寺教団には、全国から数万人の人々が押し寄せていました。しかし、それは、蓮如上人にとっては、本来の目的ではなかったのです。蓮如上人にとっての苦心は、人集めにあったのではなく、本当のお念仏のお心を、どう人々に伝えていくかにあったのです。

本来、煩悩を抱える人間は、本当のことを求めているのだと思います。みんな、ごまかしではない、本当のことを聞きたいのです。煩悩を抱える人間境涯は、信じていたものが一瞬で姿を変える恐ろしい世界です。信じていたものが一瞬で崩れ去り、味方だと思っていたものが敵になり、敵だと思っていたものが味方になる、愛憎渦巻く混沌とした世界に身を置いていることは、人生の中で誰もが感じることでしょう。

しかし、親鸞聖人は、この当てにならない人間境涯において、阿弥陀如来様の清らかな願いに出遇わせていただくなら、その人の人生は、けっして虚しく過ぎていかないと教えてくださいます。煩悩を抱える私を、深く悲しみ温かく慈しんでくださる如来様の願いは、あらゆるものが流れ去るこの世界にあって、けっして流れ去ることのない本当のことだからです。愛憎渦巻くこの世界は、阿弥陀如来様のお慈悲を味わい確認することのできる尊い世界でもあるのです。

仏法は、人が伝えるものではなく、仏法そのものの力によって伝わるものなのでしょう。お念仏を喜ぶ人のところには、磁石に引きつけられるように、自然と人が集まってくるものです。共々に、お念仏を喜ぶ人々が溢れる場所として、お寺を大切にさせていただきたいものです。

 

 

2022年5月2日