本願他力

先日、ある御門徒の方から、とても素敵な習慣について、お話を聞かせていただきました。それは、人に手渡すお菓子や飴玉を、常にお家の手の届くところに用意しているというものです。お菓子を手渡すのは、お家に訪ねてこられたご友人だけではありません。荷物を運んできてくださる宅急便の職員の方や手紙を届けてくださる郵便局の職員の方などもです。荷物を届けてくださった宅急便の職員の方に、「ありがとうございます。お体気をつけてくださいね。」という言葉と一緒に、感謝の想いを込めて、お菓子や飴玉を手渡すのだそうです。普段、何も感じずに流してしまっている自分自身を恥ずかしく思いながら、ありがたく聞かせていただいたことでした。

親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えの真髄を一言で言い表すならば、それは「本願他力」という言葉になるでしょう。本願というのは、阿弥陀如来様の根本の願いという意味です。それは、純粋な慈しみと深い悲しみです。私が抱えるどうしようもない悲しみや苦しみに深く共感し、私の本当の安らぎを深く願い、慈しんでくださる心です。他力というのは、その願いから起こされる力、働きという意味です。親鸞聖人は、この世界は、如来様の慈しみと悲しみで満たされていることを教えてくださっています。そして、我を張って一生懸命生きようとする私は、その慈しみと悲しみの働きの中で生かされ育てられているのだといいます。この如来様の願いを聞く者にとって、私を取り巻く日常のあらゆる事は、如来様の深い愛情が形を表わしている温かい世界です。あらゆる事が尊く、あらゆる事が当たり前ではなく有り難いのです。

しかし、自己中心の日暮らしは、私に本当のことを隠してしまいます。本来、喜ぶべきものが喜べず、尊ぶべきものが尊べずに、ただ自己の欲を満たすことのために人生を虚しく過ごしてしまうのです。人の欲望には限りがありません。満たされていても、いつまでも満足しないのです。不満が募り、愚痴がこぼれます。そこには、喜びはなく、ただ自分の心の渇きだけがあるのです。あらゆるものが当たり前であり、あらゆるものに無感動の日常に覆われていきます。これが、仏教で言う人間が抱える闇というものです。真っ暗な闇は、あらゆるものを私から隠し、見えなくするのです。

ご法事の折に御門徒の方々とご一緒に拝読させていただく『仏説阿弥陀経』の中には、「八功徳水」や「黄金為地」というお言葉が説かれています。仏様が受け止めていかれる真実の命の世界、浄土の様子について説かれたお言葉の一つです。「八功徳水」というのは、「無限の働きをもった水」という意味です。「黄金為地」というのは、「黄金に輝く大地」という意味です。水も大地も、私達が普段目にしているものと同じものです。特別な水や大地があるわけではありません。ただ、同じ水や大地も、仏様が見れば、「八功徳水」であり「黄金為地」であることが説かれているのです。水が蛇口から出ることが当たり前、大地の上で過ごしていることが当たり前の人には、「八功徳水」も「黄金為地」も闇の中に隠されて見えないのです。本来、水が蛇口から出てくるというのは、とてつもなく有り難く尊いものなのです。なぜなら、水は、私の命にとって欠かすことの出来ないものでありながら、一滴の水でさえ、自分の力で作り出すことができないからです。大地も同じです。大地がなければ、私は、ここに存在することすらできません。毎日、食事として頂く様々な命も、根本的には大地に育まれたものです。無数の命を育む広大な大地が、私の足下にあることは不思議です。決して当たり前ではありません。黄金に輝くほどの尊い恵みの上に、私の命が生かされていることが「黄金為地」の一言の中に説かれているのです。

私は、私の自力の中で生きているのではなく、本願他力の中に生かされている尊い存在であることを、親鸞聖人は教えてくださっているのです。他力の中に生かされている人には、喜びがあり感動があります。感動があるところには、必ず感謝の想いがあります。感謝の想いがあるところには、必ず他者に対する思いやりの心があります。阿弥陀如来様の願いを聞く中に、あらゆるものに感動し、あらゆるものに感謝し、あらゆる命に思いやりの心を持つ、そんな姿が、浄土真宗の念仏者の姿なのでしょう。

この世に生まれてきて、何を聞き、何を知るべきなのか、そのことを『仏説阿弥陀経』の浄土の経説は、教えてくれています。宅急便のお兄さんも、郵便配達のおじさんも、どんな人も有り難い人として輝いて受け止めていける、そんな感動溢れる毎日を、お念仏申す中に、大切にさせていただきましょう。

2021年9月29日