「お聴聞」

【住職の日記】
明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、一日一日を丁寧にいただいて参りましょう。

先日、ある御門徒の方の二十五回忌のご法事にお参りさせていただいた時のことです。施主様から二十五回忌を迎えるお父様について、次のようなお話を聞かせていただきました。

「来月は、御正忌報恩講ですね。コロナが、早く落ち着くといいですね。父は、御正忌報恩講の三日間は、正法寺に泊まり込んでお聴聞していました。昔は、多くの人が、御正忌報恩講の三日間、お寺に泊まり込んでお聴聞していたみたいですが、父は、最後まで泊まっていた人の一人です。お寺に迷惑がかかるからと家族が止めても、最後までお寺に泊まることをやめようとしませんでした。最後は、病院に入院していましたが、お寺の御法座があるときには、外出許可を取って、病院からお寺にお参りしていました。本当に、お聴聞が好きな父でした。懐かしいですね。御正忌報恩講を迎えると、いつも父のことを思い出します。」

「お聴聞」ということを、人生の柱にして生きられた先人の方の尊いお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

浄土真宗において、仏様のみ教え、そのお心を聞かせていただくことを「お聴聞」といいます。そして、この「お聴聞」が、浄土真宗において、最も大切な行いになります。浄土真宗では、特別な戒律や修行を課すことはありませんが、だからといって、何もしなくてもいいということはありません。心がけてしなければならないことがあります。それが、お聴聞です。

聴も聞も同じ「きく」という言葉ですが、聴は、「明らかに聴く」という意味があります。「聴く」というのは、自ら自発的に求めて聴いていくことをいうのです。一方で、聞は、「そのまま聞く」という意味があります。「聞く」というのは、自ら聴くのではなく、聞こえてくるものをそのまま素直に聞くことをいいます。仏様のお心を聞くには、それを求める心がなければ聞くことはできません。仏様に無関心で、仏法を求めていない人が仏様のお心を聞いても、何も響いてこないでしょう。話だけが素通りしていくだけです。一方で、仏様のお心を求めていたとしても、自分の都合よく仏様のお心を聴いてしまうと、そのまま聞くことにはなりません。仏様は、本当のことを教えてくださいますが、本当のことは、私にとって必ずしも都合のいいことばかりではないのです。自分の価値観を主体にして、仏様のお言葉を受け止めてしまうと、仏様のお心は自分の影に隠れてしまいます。「お聴聞」というのは、聴と聞とがピタッと合わさる中で成立する非常に繊細な行いなのです。

江戸時代末期、下関市の六連島に「おかるさん」と呼ばれた尊い念仏者がおられました。夫の浮気がご縁となり、仏法を真剣に求めて聴くようになったと言われています。現在でも六連島には、「身投げ岩」と呼ばれる、おかるさんが、投身自殺を図ったと言われる場所があります。そんな、おかるさんも、最初は、求めて仏法を聴いても、仏様のお心は聞こえてこなかったといいます。聞こえてくるのは、愛憎に狂う自分の心だけです。お慈悲が聞こえてこず、救われようのない自分に、何度も絶望したといいます。しかし、真剣に仏法を重ねて聴くうちに、だんだんと自分の悲しい姿が見えてきたといいます。それは、人を呪い、怨み、妬まねばならない自分自身の悲しさです。夫もその浮気相手も、地獄の底へ突き落としてやりたいと思い続けている、その自分の罪業の深さを思うと、地獄の底へ落ちていかなければならないのは、むしろこの自分ではないか。罪業深重という言葉が、我が身のこととして響いてきたというのです。自分の都合ではなく、本当のことが聞こえてきたということです。

おかるさんは、晩年、こんな詩を詠んでいます。 「重荷せおうて山坂すれど 御恩思えば苦にならず」 人生というのは、様々な重荷を背負って、山坂をくぐり抜けていかなければなりません。人間は、生きている限り煩悩を燃やし続けます。それだけに様々な苦悩を背負っていかなければならないのです。しかし、その苦悩の重荷を、単なる愚痴の種にしてしまわずに、仏法を味わう尊い縁として、人生これ念仏の道場なりと頂いていくような心の眼が開かれていくのが、お聴聞を柱とした浄土真宗の仏道の姿なのです。

今年も、御正忌報恩講をお迎えします。お聴聞を人生の柱として生き抜かれた多くの先人の方々のみ跡を慕い、親鸞聖人の御遺徳を味わいながら、我が身のこととして、大切にお聴聞させていただきましょう。

 

 

 

 

2022年1月1日

「八十八カ所巡り」

先日、保育園関係の仕事で山口市の職員の方と雑談をさせていただいた時のことです。その職員の方も、浄土真宗の御門徒ということでしたが、四国の八十八カ所巡りをされたことを、楽しくお話くださいました。四国の八十八カ所巡りは、真言宗の開祖、弘法大師空海のゆかりの寺院を徒歩で巡り礼拝を行う、真言宗の修行の一つです。本来は、弘法大師を敬う真言宗の修行僧が行うものでしたが、江戸時代辺りから、病気平癒などの現世利益を求めて、一般の民衆も行うようになったようです。現在では、観光地化され、八十八カ所巡りのバスツアーまである状況です。その山口市の職員の方も、観光旅行として八十八カ所巡りをされたそうですが、その中で、興味深いお話をしてくださいました。

それは、沿道にお住まいの方々の心遣いについてのことでした。現在は、観光客用に、修行僧と同じ白装束が、売店で売られているそうです。職員の方も、売店で白装束を購入し、修行僧と同じ姿で歩かれたそうですが、沿道にお住まいの方々が、御布施としてお金を包んでくださったり、食べ物を持たせてくださったりするそうです。申し訳なく恥ずかしい思いを持ちつつも、宗教的な温かい雰囲気も味わうことが出来たと言います。

この方との雑談を通して、改めて宗教というものについて、考えさせられたことでした。宗教という言葉が意味する範囲は多岐にわたります。しかし、仏教、キリスト教、イスラム教の民族の枠をはみ出して、人間の根本的な不安に応えていく世界宗教と言われているものに共通するのは、清らかな聖なるものに対する敬いの心だと思います。

その意味では、現在の四国の八十八カ所巡りの現状は、宗教とは言いがたいものです。なぜなら、歩いている方々に、必ずしも弘法大師に対する敬いの心があるわけではないからです。弘法大師が、どんな方なのかも、よく知らない人も多いのではないでしょうか。ただ自分の楽しみのために八十八カ所を巡ったり、また、病気平癒や家内安全など、自分と自分に関係のある者の都合を願うだけであれば、それは、自らの欲望に促されているに過ぎません。それは、高野山に籠もられて、自らの欲望に促されていく浅ましい姿を真っ向から否定された弘法大師の姿とは、全く異なるものです。しかし、八十八カ所巡りも、本来は、現在のような姿ではなかったのでしょう。心から清らかであろうとした弘法大師の尊い姿を敬う、真面目な修行僧の方々が、礼拝をしながら歩かれていたのです。そのような昔の清らかな残り香が、沿道の方々の温かい心遣いなのでしょう。

「敬う」という心は、ただ「大切にする」という心とは異なります。鬼のような人間にも、何かを大切にする心はあります。しかし、「敬う」という心は、自己の欲望を貪る鬼のような人間の中には、存在しない心です。それは、「頭が下がる心」と言えばいいでしょうか。自らを犠牲にして、他の命を慈しんでいく聖なる存在を前にしたとき、自らの欲望に占領されている俗なる者は、その存在の有り様に心打たれ、心地よい敗北感を味わうのです。屈辱感や恐怖心と共に頭を下げる世界は、修羅や畜生の世界にもあるでしょう。しかし、心が感動に満たされる中に、深い喜びと共に頭が下がっていく世界は、人間境涯の上に現れる本物の宗教の世界だけです。本来、本物の宗教は、豊かな感受性の上に現れる、実に人間らしい営みなのです。

しかし、そんな宗教も、常に世俗化していく危険性をはらんでいます。浄土真宗も例外ではありません。仏様を敬う心、親鸞聖人を敬う心が失われ、ただ形だけが残っていく危険性を、浄土真宗も常にはらんでいるのです。敬う心が失われるというのは、そこに感動や喜びが亡くなっていくということです。人生において、頭が下がるものに出会ったことがないというのは、出会ってきたもの全てが、つまらないものだったと言ってもよいと思います。頭を下げようとも思わない、そんなつまらないものばかりを見てきた人生は、やっぱりつまらない人生です。思い通りにはならない困難な人生において、頭が下がるほどの清らかなものに出会っていくところに、豊かな感受性が恵まれた人としての本当の喜びがあるのではないでしょうか。

形だけに終わることなく、一人ひとりが、如来様の清らかなお慈悲を大切に聞き、丁寧に頂いていく毎日を大切にさせていただきましょう。

 

 

2021年11月30日

仏法は無我にて候

先日、正法寺が運営する嘉川保育園に、定時制高校の生徒十名が、職場体験に来てくれました。一昔前の定時制高校は、社会人が入学することも多かったようですが、現在は、ほとんどが一般の高校生と同じ年齢の子ども達です。しかし、現在の定時制高校は、不登校等の様々な問題を抱える中学生が、進学するケースも多いそうです。この度、嘉川保育園に職場体験に来てくれた生徒達も、そのほとんどが、中学生時代、不登校等の様々な問題を抱えた経験のある子ども達だということでした。

その中で、とても暗い目をした一人の男子生徒がいました。保育室に入っても、部屋の隅で座ったまま園児と関わろうとしません。やる気がないのではなく、自分から関わることに怖さを感じているようでした。おそらく、これまで様々な人間関係の中で、人知れない苦しみを抱えてきたのでしょう。怯えたような暗い目が、そのことを物語っているようでした。ところが、その男子生徒の顔が、とても幸せそうな穏やかな表情になった瞬間があったのです。それは、一歳の女の子が男子生徒の膝に座ったときでした。一歳の女の子は、遊びに来てくれた高校生のお兄さんに、ただ甘えたかったのでしょう。ニコニコしながら、そこに座るのが当たり前のように、ちょこんと男子生徒の膝に座ったのです。その瞬間、それまで暗い目をしていた男子生徒の顔が、照れたように赤くなり、とても穏やかな笑顔になったのです。職場体験が終わった時、その男子生徒に一言「よかったね」と声をかけさせていただきました。顔を赤くして「はい」と大きく頷いた恥ずかしそうな笑顔に、こちらも、とても幸せな気持ちをいただいたことでした。

本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人のお言葉に「仏法は無我にて候」というものがあります。仏教というのは、無我なるものに救われていくことを教えるものであり、また、自らも無我なる存在へと育てられるみ教えであるというのです。我というのは、「我を張る」や「我がまま」という言葉があるように、自分の都合を貪っていく煩悩の根本になるものです。我が、人を傷つけ、自らも傷つけていくのです。喧嘩というのも、お互いの我と我とがぶつかり合うことです。どちらかが、我を収めれば、喧嘩も収まります。しかし、実際は、我を収めるというのは、なかなか難しいことです。親鸞聖人も「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」とお言葉を遺されています。私達は、命終わるその瞬間まで、自らの我に苦しめられていく存在なのです。

自らの我に縛られ、我に振り回されていく私達は、何によって癒やされ救われていくのでしょうか。それは、無我なるものだと仏教では教えてくださるのです。人間の境涯で言うと、無我に近いものが、子どもです。個人差はありますが、小さな子どもほど、無邪気な姿を見せてくれます。行動に、余計な計算や計らいが混じりません。我の混じらない純粋な行動は、我を持つ者を和らげ包み込んでいきます。無我に近いものに触れると、人は、安らぎを覚えるのです。

親鸞聖人が、『教行信証』の中で、阿弥陀如来のお慈悲を「大地のごとし」と大地に喩えておられるお言葉があります。大地というのは、自己主張をしません。大地に拒まれる命はありません。どんな命も、大地というのは受け入れ、そして、育んでいくものです。人間を見て、一目散に逃げていく野生の動物はたくさんいますが、大地を見て逃げる動物はいません。どんな動物も、大地には安心して身を預けています。それは、大地が無我なるものだからです。我を持つものは、無我なるものに支えられ包まれているのです。

阿弥陀如来のお慈悲は、無我なる真実の心なのです。真実というのは、変わらないということです。子どもの純粋な心も、成長と共に我に汚されていきます。大地も形あるものである限り、永遠ではありません。また、大地は心を持っていません。しかし、如来様のお慈悲は、変わることのない無我なる心なのです。本来、仏法のご縁に触れるというのは、小さな子どもに、ほっと心が溶かされていくように、大地に動物が安心して身を預けていくように、如来様の無我なる言葉に触れて、自らの我が溶かされ安らぎを頂いていくと共に、苦しみ多いこの人生が、絶対安心なものに支えられ育まれていることを知ることなのです。

人間境涯は、我の渦巻く恐ろしい世界です。如来様の無我なるお心に触れていく温かい時間を大切にしたいものです。

2021年11月1日

本願他力

先日、ある御門徒の方から、とても素敵な習慣について、お話を聞かせていただきました。それは、人に手渡すお菓子や飴玉を、常にお家の手の届くところに用意しているというものです。お菓子を手渡すのは、お家に訪ねてこられたご友人だけではありません。荷物を運んできてくださる宅急便の職員の方や手紙を届けてくださる郵便局の職員の方などもです。荷物を届けてくださった宅急便の職員の方に、「ありがとうございます。お体気をつけてくださいね。」という言葉と一緒に、感謝の想いを込めて、お菓子や飴玉を手渡すのだそうです。普段、何も感じずに流してしまっている自分自身を恥ずかしく思いながら、ありがたく聞かせていただいたことでした。

親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えの真髄を一言で言い表すならば、それは「本願他力」という言葉になるでしょう。本願というのは、阿弥陀如来様の根本の願いという意味です。それは、純粋な慈しみと深い悲しみです。私が抱えるどうしようもない悲しみや苦しみに深く共感し、私の本当の安らぎを深く願い、慈しんでくださる心です。他力というのは、その願いから起こされる力、働きという意味です。親鸞聖人は、この世界は、如来様の慈しみと悲しみで満たされていることを教えてくださっています。そして、我を張って一生懸命生きようとする私は、その慈しみと悲しみの働きの中で生かされ育てられているのだといいます。この如来様の願いを聞く者にとって、私を取り巻く日常のあらゆる事は、如来様の深い愛情が形を表わしている温かい世界です。あらゆる事が尊く、あらゆる事が当たり前ではなく有り難いのです。

しかし、自己中心の日暮らしは、私に本当のことを隠してしまいます。本来、喜ぶべきものが喜べず、尊ぶべきものが尊べずに、ただ自己の欲を満たすことのために人生を虚しく過ごしてしまうのです。人の欲望には限りがありません。満たされていても、いつまでも満足しないのです。不満が募り、愚痴がこぼれます。そこには、喜びはなく、ただ自分の心の渇きだけがあるのです。あらゆるものが当たり前であり、あらゆるものに無感動の日常に覆われていきます。これが、仏教で言う人間が抱える闇というものです。真っ暗な闇は、あらゆるものを私から隠し、見えなくするのです。

ご法事の折に御門徒の方々とご一緒に拝読させていただく『仏説阿弥陀経』の中には、「八功徳水」や「黄金為地」というお言葉が説かれています。仏様が受け止めていかれる真実の命の世界、浄土の様子について説かれたお言葉の一つです。「八功徳水」というのは、「無限の働きをもった水」という意味です。「黄金為地」というのは、「黄金に輝く大地」という意味です。水も大地も、私達が普段目にしているものと同じものです。特別な水や大地があるわけではありません。ただ、同じ水や大地も、仏様が見れば、「八功徳水」であり「黄金為地」であることが説かれているのです。水が蛇口から出ることが当たり前、大地の上で過ごしていることが当たり前の人には、「八功徳水」も「黄金為地」も闇の中に隠されて見えないのです。本来、水が蛇口から出てくるというのは、とてつもなく有り難く尊いものなのです。なぜなら、水は、私の命にとって欠かすことの出来ないものでありながら、一滴の水でさえ、自分の力で作り出すことができないからです。大地も同じです。大地がなければ、私は、ここに存在することすらできません。毎日、食事として頂く様々な命も、根本的には大地に育まれたものです。無数の命を育む広大な大地が、私の足下にあることは不思議です。決して当たり前ではありません。黄金に輝くほどの尊い恵みの上に、私の命が生かされていることが「黄金為地」の一言の中に説かれているのです。

私は、私の自力の中で生きているのではなく、本願他力の中に生かされている尊い存在であることを、親鸞聖人は教えてくださっているのです。他力の中に生かされている人には、喜びがあり感動があります。感動があるところには、必ず感謝の想いがあります。感謝の想いがあるところには、必ず他者に対する思いやりの心があります。阿弥陀如来様の願いを聞く中に、あらゆるものに感動し、あらゆるものに感謝し、あらゆる命に思いやりの心を持つ、そんな姿が、浄土真宗の念仏者の姿なのでしょう。

この世に生まれてきて、何を聞き、何を知るべきなのか、そのことを『仏説阿弥陀経』の浄土の経説は、教えてくれています。宅急便のお兄さんも、郵便配達のおじさんも、どんな人も有り難い人として輝いて受け止めていける、そんな感動溢れる毎日を、お念仏申す中に、大切にさせていただきましょう。

2021年9月29日

死もまた幸せ

先日、初盆のご縁でお参りさせていただいた時のことです。ご遺族の方から、次のようなお話を聞かせて頂きました。

 「昨年のお盆は、まだ母がいたんだなと思うと、色んなことを思い出して、涙がでてきました。本当にいなくなってしまったんだなと改めて感じました。やっぱり寂しいですね。時間が経っても寂しいです。でも、御住職さんのお勤めを聞きながら、母はお浄土に生まれていったんだなと思いました。先立った父や子どもと、お浄土でまた会えているのかなって。寂しいですけど、母にとっては、昨年、命終わって、お浄土に生まれさせてもらったことは、幸せだったのかなって思います。」

私達は、命終わることを、どのように受け止めていけばよいのでしょうか。一般的には、歳を十分重ねて命終わることを「大往生」と言ったりします。ここでの「大往生」という言葉は、本来、仏教で説いている意味とは違うようです。「十分に人生を生きて、やり残したことはないだろう」というぐらいの意味でしょうか。

しかし、人より長く人生を生きた者のことを、大往生だと讃え、人より短く人生を終えた者のことを、かわいそうだと言うのは、いかがなものでしょうか。それは、結局のところ、長く生き残った者が幸せということでしょう。実際、生き残った者が幸せなのか、死んだ者が幸せなのか、本当のところは、分からないはずです。誰もが死を抱えて生まれてくるのです。死なない命はありません。しかも、誰がいつ死んでも不思議ではないのです。

お釈迦様は、生と死は別のものではないと教えておられます。私達は、生と死とは事実として別のものとしか思えません。生きているということは死んでいないことであり、死んでいるということは生きていないことだからです。それを同じだと受け止めていくのは、私には無理です。真理を悟り仏に成るというのは、やっぱり果てしない世界だと感じます。しかし、ここに、意味という言葉を加えるとどうでしょうか。生と死は別の意味を持っていない、生と死は同じ意味を持っているということです。生きることを、本当に幸せだと受け止めている人は、死んでいくことの中にも大切な意味を受け止めている人ではないでしょうか。死んでいくことは無意味であり、あってはならない不幸だと受け止めている人の人生は、楽しそうに見えても、そこには言い知れない不気味な暗い影がさしていると言わざるをえないでしょう。別のものではないということは、生が死を意味づけ、死が生を意味づけていくということなのです。

古今東西、人々を本当の意味で救ってきた宗教というのは、人生をどのように幸せに生きるかだけを説くものではなく、死んでいく中にも、生きることと同じ尊い意味を与えてきたものだと思います。死の本当の意味を問わない思想は、必ず死んでいく人間を、本当の意味で救う力などないはずです。本来、思い通りにはならないはずの人生の状況に対して、こうすれば幸せになれると、力を入れて教えていく宗教には気をつけるべきです。

仏教の中でも、浄土の教えは、死んでいく中に浄土に生まれるという意味を与えるものです。浄土に生まれるというのは、天国や楽園に生まれるのとは意味が違います。天国や楽園は、煩悩を抱えた人間の欲望が作り出していく世界でしかありません。思い通りになりたいという欲求が描いていく世界だからです。楽園と地獄は、実は紙一重の世界です。飽くなき欲望が、深い苦しみを生んでいくからです。

浄土という世界は、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみに震えていく清らかな仏様が描き出していく世界です。自分が都合よく生きるために生まれていく世界ではありません。自分以外の様々な命を、本当に慈しみ愛する者に成るために生まれていく世界なのです。お浄土で会うというのも、この世界で好きな人と会うのとは違います。仏様の命を恵まれた私が、同じく仏様と成られた尊い方々と敬い合う中で、一つに会わせていただくのです。それは、愛し愛される中に、命が一つに溶け合っていく世界でしょう。あらゆるものが自分の一人子のように愛おしく輝いていく世界です。そんなお浄土に続いている今だからこそ、今の一瞬一瞬も尊いのではないでしょうか。死に続いている今なら、今も死んでいるのと同じです。

今生の別れの寂しさの中にも、死もまた幸せだと味わえる世界が、仏教が教える世界だと思います。清らかな仏様に抱かれ、清らかなお浄土に続く今を、お念仏を申す中に、大切に歩ませていただきましょう。

 

2021年8月31日

どんな時も、どんな私でも、如来様が必ずご一緒である

先日、お寺の近くの道路で、捨て猫を保護しました。二日間ぐらいでしょうか、ずっと猫の鳴き声が、お寺まで聞こえていました。探してみると、国道二号線脇の茂みの中に、生後四ヶ月ぐらいのオスの子猫がうずくまっていました。保護し、お寺まで連れて帰ると、最初は怯えていましたが、とても人懐っこく甘えん坊です。トイレも、市販の猫砂の上できちんとすることができます。おそらく、最近まで人に飼われていたのでしょう。二日間も鳴き通しで、声が枯れていました。猫は、猫同士のコミュニケーションでは鳴いたりしません。猫が鳴くのは、人間に対してなのです。よほど不安で寂しかったのでしょう。見捨てるという行為の残酷さを、改めて教えられたことでした。

浄土真宗というみ教えにおいても、この「見捨てる」という行為は、大きな意味をもっています。親鸞聖人が、そのご生涯で必死に救いを求められたのも、「見捨てられた者」という実感を、強くお持ちだったからなのです。

仏と凡夫との違いを、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』というお書物の中には、具体的に恐れおののく心の有無にあることが説かれています。そこには、五つの心が示されています。一つは、不活畏(ふかつい)という心です。これは、上手く生活していけるかどうかに対する恐れです。人間、何十歳になっても、生活に対する不安は拭えないのではないでしょうか。二つには、悪名畏(あくみょうい)という心です。これは、人に悪口を言われていないかという恐れです。自分の悪口が耳に入っても、平常心でいられる人はいないでしょう。心がざわつくはずです。三つには、怯衆畏(こうしゅい)という心です。これは、人目を恐れるということです。誰でも人からどう思われているか、人の評価を気にしながら生きています。四つには、命終畏(みょうじゅうい)という心です。これは、自らが死んでいくことに対する恐れです。死への恐怖は、誰もが抱くものです。誰もが、死に対して無知だからです。理解できないものは、恐ろしいのです。五つには、悪趣畏(あくしゅい)という心です。これは、悪い所に行きはしないか、状況が今よりも悪化するのではないかという恐れです。これも、誰もが抱えている恐れでしょう。凡夫というのは、このような恐れや不安を抱く者のことをいうのです。一つでも当てはまれば、立派な凡夫です。逆に、このような恐れや不安を、何一つ抱かない者を聖者、仏様というのです。仏様には、恐れや不安はないのです。

仏道修行が順調に進んでいくと、このような恐れや不安が消えていき、人格が安定し、仏様に近づいていくとされます。しかし、仏道修行をいくら積み重ねても、仏に近づけない、不安や恐れを抱き続ける人はどうなるのでしょうか。それは、見捨てられるということです。お釈迦様は、仏に成るために必要な道を示されました。その道を歩むのは私自身です。歩めない者は、お釈迦さまからも見捨てられる、どうしようもない者ということです。本来の仏教の枠組みでは、このように考えられていました。

親鸞聖人も、比叡山でご修行されていたとき、不安や恐れが消えない中で、見捨てられた子猫のように、心の中ではただ救いを求め、叫んでおられたに違いありません。しかし、不安や恐れの中に落ちていく者を、決して見捨てることができないのも、仏様だったのです。仏様というのは、道を示し、できるものだけを評価する先生ではなかったのです。できるものを評価するのは当然ですが、それ以上に、できない子どもを放っておけない愛情深い親のような存在だったのです。

『仏説阿弥陀経』の中に迦留陀夷(カルダイ)という名の聴衆がいたことが説かれています。このカルダイは、お釈迦様の仏教教団の中では、戒律も教えも守らない不良青年のようなお弟子だったと伝えられています。しかし、不良青年のカルダイも、お釈迦様が阿弥陀如来様について説かれるお説教の場には、座ることが許されていたということです。お釈迦様の仏教教団では、どんな人にも居場所が恵まれていたのです。

仏に見捨てられても仕方がないような凡夫にも、居場所は恵まれています。それを親鸞聖人は、阿弥陀如来様から願われている私だよと教えてくださいました。けっして見捨てられることのない私との出遇いが、浄土真宗だと思います。お念仏を申す中、どんな時も、どんな私であっても、如来様が、必ずご一緒であることを大切に喜ばせていただきましょう。

2021年8月2日

「五濁悪世」

先日、テレビを見ていると、北海道の札幌市で、商業施設や住宅が建ち並ぶ市街地に、クマが出没したというニュースが報道されていました。四人の人達が襲われ、重軽傷を負ったそうです。テレビの映像には、大きなクマが、巨体を揺らしながら、必死にフェンスによじ登る姿が映っていました。そのニュースで使われていた表現に、気になるものがありました。

「クマは午前11時すぎに同じ東区内で猟友会によって駆除されました。」

いかがでしょうか。「駆除」という言葉に、何か引っかかるものを感じないでしょうか。「駆除」という言葉を、国語辞典で調べますと、「害を与えるものを追い払う」とあります。しかし、追い払うことと命を殺めることは、必ずしも同じ意味ではありません。「クマは駆除されました」という表現は、「邪魔者は追い払われました」という意味のみが強調され、「クマの命を殺めざるをえなかった」という人間の心の痛みは、隠されています。もっと言えば、ここには、「邪魔者は殺されても仕方がない」という、人間の邪見が露わになっている感じがします。

ご法事の時に、御門徒の方にもご一緒に拝読していただく『仏説阿弥陀経』には、「五濁悪世」というお言葉が説かれています。五濁悪世とは、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という人間世界を覆う五つの濁り(にごり)を説いたものです。仏様の眼から見れば、この世界は、決して清らかではなく濁りきっているというのです。

劫濁とは、時代そのものが濁っているということです。その元にあるのが、見濁です。その時代に生きる人々の見解が濁っているのです。自己中心的な見解によって自己も環境も、すべてを濁らせていきます。自分たちさえよかったらよいという考え方が、社会とその時代を濁らせていくのです。煩悩濁とは、人の行動が濁っているということです。自分に都合のよいものを飽きることなく求め、自分に都合の悪いものを怒りをもって排除しようとする、そのような我欲に染まった誤った行動が、自分も人も環境も破壊していくのです。このような濁った見解と行動によって、生き物全体が劣化していく状況を衆生濁といいます。そして、命濁とは、命そのものの尊さを感受する心が失われ、命の価値が粗末になっていくことをいうのです。

まさしく、私達が生きる人間社会の状況を、的確に説き表わしているものだといえるでしょう。2500年前のインドも現代の日本も、人間という迷える存在が作り出していく社会は、何も変わらないのです。お経というのは、じっくり拝読させていただくと、おとぎ話のような非現実的なことではなく、ドキッとさせられるような本当のことが書かれてあることがよく分かります。しかしそれは、お経に書かれてあるから、本当なのではありません。本当のことだから、お経に書かれてあるのです。お釈迦様のお言葉というのは、五濁悪世の中にあって、その濁りに決して染まることなく、清らかな真実に目覚めていかれた仏様のお言葉です。それは、真実に目覚めた方のお言葉であると同時に、五濁悪世の中で濁りに染まっていくものを、真実に目覚めさせるお言葉でもあるのです。

今でも仏教の教えに基づいた国作りをしている国家があります。ブータンという国です。ブータンに旅行に行った方が、「初めてハエに生まれ変わってもいいと思った」という感想を漏らされたことを、ある僧侶の方から聞かせていただいたことがあります。ハエに生まれ変わっても幸せと思えるほど、ハエの命も敬われている社会があるということなのでしょう。おそらくブータンでは、ハエを殺める行為に対しても「駆除」という言葉は、けっして使うことはないはずです。

濁った者同士の中にいる者は、自分が濁っているということに気づくことはありません。濁りに気づくのは、濁っていない清らかなものに出会うこと以外にはないのです。その意味では、お釈迦様のお言葉が記されたお経というのは、自分の濁った姿を映し出す鏡のようなものです。清らかな綺麗な者の前で、自分が汚れ濁っていれば、必ず恥ずかしさが生まれます。そして、恥ずかしさが生まれれば、自分の身を正していこうとするはずなのです。ここに、仏教徒としての厳格な生き方が恵まれていくのでしょう。

命に対して「駆除」や「殺処分」というような冷酷な言葉が公に使われ、何も感じなくなっている社会というのは、鬼が作りだす地獄と同じです。五濁悪世の中に届いてくださる清らかな言葉に耳を傾け、真実に気づかされていく毎日を、大切に歩ませていただきたいものです。

2021年6月30日

あなたがここにいることが、ただ嬉しくて幸せ

先日、ある短編小説を読む機会がありました。主人公は、高校三年生の息子を持つ四十歳代の母親です。高校三年生の一人息子、真吾君は、県内随一の進学校に通っています。お母さんの希望は、有名大学に進学して、給料の安定した大きな企業に就職してくれることです。しかし、真吾君は、大学には進学する気がなく、今流行のユーチューバーになりたいと言います。お母さんは、悩みます。お母さんの思いをくみ取ってくれない真吾君が理解できません。学問の神様、菅原道真が奉られている有名な神社に連れて行けば、真吾君が勉強し始めるかも知れない、そんな淡い期待をもって、真吾君を無理矢理神社に連れて行ったりします。でも、真吾君はいっこうに変わらないどころか、どんどんお母さんから離れていってしまいます。可愛い息子が、なぜ、あんな風に変わってしまったのか、お母さんは、どんどん悩みを深めていきます。

そんな時、買い物に出かけたスーパーで、迷子になっている男の子に出会います。「お母さん・・・」と泣きべそをかいている男の子を見て、思わず抱きしめてしまいます。その時、ふと、真吾君が幼かった時の様々な記憶が、お母さんによみがえってきます。それは、純粋に親子が名前を呼び合う光景でした。その場面は、次のように描かれています。

「「おかあさん」、小さな真吾が私を呼んだ。私も呼ぶ。「真吾」。用事はない。ただ呼びたかっただけ。あなたがここにいることが、ただ嬉しくて幸せだって、そう思うから。」

お母さんは、真吾君に寄り添おうとしない親になってしまった自分に気づきます。変わってしまったのは、真吾君ではなく自分でした。お母さんは、悩みながらも、親としての姿を取り戻していきます。そして、物語は、最後、高校三年生の真吾君ともう一度、「真吾」「母さん」と照れながら名前を呼び合う光景で閉じられていきます。

悩める母親の姿を描いた、とても読み応えのある小説でした。この小説を読んでいて、ふとお念仏のことを思いました。この小説の中で描かれている純粋に親子が名前を呼び合う光景、これこそ、お念仏を称える光景と重なるものなのです。

親鸞聖人は、その主著『教行信証』の中で、南無阿弥陀仏の南無の心について、次のように説明されています。

「しかれば南無の言は帰命なり。・・・・ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。」

南無阿弥陀仏の南無という言葉は、帰命という意味であることを説明されます。そして、その帰命とは、本願召喚の勅命であることを明らかにされていきます。勅命とは、絶対に逆らうことの出来ない命令のことです。戦時中は、天皇陛下の勅命という表現が、よく用いられました。そして、本願召喚というのは、真心をもって喚んでくださるということです。南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏が、真心をもって一人子に喚びかける母親のように、愛おしく私のことを喚んでくださる働きなのです。

また、本願寺第八代御門主の蓮如上人は、こんなことをおっしゃっています。

 「御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、そのうれしさに念仏申すばかりなり、すなはち仏恩報謝なり。」

阿弥陀仏の真心を聞いて、そのうれしさに申すのがお念仏であり、それは、仏様の御恩に感謝し、御恩に報いていく姿であるというのです。

阿弥陀如来様は、「あなたがここにいることが、ただ嬉しくて幸せ」という慈しみの塊となって、用事もないのに南無阿弥陀仏と私の声となり、私を抱きしめてくださいます。その真心を南無阿弥陀仏と聞かせていただいた私も、そのうれしさ、あたたかさのあまり、南無阿弥陀仏と阿弥陀如来様の名を呼び、阿弥陀如来様の慈しみに応えていくのです。

南無阿弥陀仏と称える人の姿は、母親に一心に愛されている子どもが、用事もないのに、「おかあさん」と母親の名を呼ぶ姿と重なります。母親にとって、愛する我が子から、用事もないのに、ただ「おかあさん」と呼ばれることは、なによりも幸せなことです。それは、我が子が、母親の愛情に気づき、母親を信じ、母親を慕ってくれている姿だからです。それは、阿弥陀如来様も同じなのです。だから、私がお念仏を申すことが、仏様の御恩に報いていく仏恩報謝になっていくのです。

用事もないのに純粋に仏様と名前を呼び合う、そんな慈しみに抱かれ、あたたかさに溢れていくのが、お念仏を申していく日暮らしなのでしょう。如来様に抱かれ、歩ませていただく人生を大切にさせていただきましょう。

2021年5月30日

山門をくぐる

先日、御門徒の方々が、お寺で次のような会話をしておられました。

 「お寺にお参りして、お話を聞くと、分からなくても、なにかスッとした気になるんですよね。」
「私も、それ分かります。会社でいやなことがあっても、お寺にお参りすると、いやなことを忘れるんですよね。一度リセットできて、また、会社に行けることがありますよ。」
「そうですね。仏様のお話を聞いてると、悩んでいることが、なにかちっぽけな感じがしてくるんですよね。」

大学生の時、龍谷大学に入学し、生まれて初めて仏教に触れる友人に、「お寺って、何のためにあるん?」と尋ねられたことがあります。お寺で生まれ育った者にとっては、根本的すぎる質問に、大変戸惑った記憶があります。しかし、それと同時に、世間一般的に捉えられているお寺の印象を、初めて教えられて気がして、驚きを覚えたことでした。

お寺とは、何のためにあるのでしょうか。また、なぜ、何百年も現在まで残されてきたのでしょうか。それは、仏法を伝え、聞くためでしょう。お寺でなければ、表現の出来ない、聞くことの出来ない事柄があります。公民館やカルチャーセンターでも、仏法の話はできます。しかし、本当に仏法を表現し伝えることができるのは、お寺以外にはないのです。お寺は、阿弥陀如来様というご本尊を中心とした宗教的儀礼空間です。この阿弥陀如来様を中心とした空間の中で、私達は、仏法というものに本当に触れることができるのだと思います。

そもそも、誰もが、自分の人生の主人公は自分です。日々の暮らしの主人公は、自分以外にはありません。日々の暮らしの中で経験していく喜びや悲しみは、自分を主人公とした物語を紡いでいるといえるでしょう。その主人公は、いつも幸せな笑顔で過ごせるのが理想です。そのために人は、日々、格闘していかなければなりません。人の都合は、人の数だけあるからです。一人の都合が叶うということは、もう一人の都合は叶わないということでもあります。私の喜びの影には、必ず誰かの悲しみと我慢があることを忘れてはならないでしょう。生きるということは、常に自他共に傷を伴うものなのです。

そんな日常生活を送る私が、癒やされる場所があるとすれば、それは、主人公であることを一旦休める場所ではないでしょうか。実は、お寺という空間は、主人公であることを休める場所なのです。お寺の山門は、主人公が入れ替わるための結界のような意味をもっています。山門をくぐった先の空間は、阿弥陀如来様が主人公の世界です。

私の人生は、本来、私にしか味わうことのできないものです。しかし、もし、私以外の誰かが、私の人生を経験したとしたら、それは、私が受け止めたものとは全く異なる景色が、そこには現れてくるはずです。同じ出来事でも、受け止め方や感じ方は、人によって様々だからです。阿弥陀如来様という仏様は、私の人生を一緒に歩んでくださる仏様です。それは、誰にも理解してもらえないような深い悲しみも、大きな喜びも、如来様は、私と共に経験してくださるということです。そして、私とは全く異なる景色を見せてくださるのです。

如来様が教えてくださる人生の景色に触れると、悩んでいることもちっぽけに感じることもあるでしょう。また、喜びの中に、違う深さを味わうこともあるでしょう。仏様が味わい教えてくださる私の人生は、輝きに満ちています。

親鸞聖人は、自力という姿勢を否定され、他力に帰する姿勢を勧められました。しかし、それは、努力を否定され、人に甘えることを勧められたのではありません。自分の頑なな了見に固執することを否定され、清らかな仏様の了見に身と心をまかせていくことを勧められたのです。

誰もが、人生という戦場を必死に戦い生き抜いている戦士です。人生を生きるというのは、本当に厳しいものです。必死に我を張らないと、持ちこたえられないのが人生でしょう。しかし、お寺では我を張らなくてもよい世界が恵まれていくのです。私を慈しんでくださる阿弥陀如来様の前では、我を張らなくてもよいのです。「必ず仏にする」、如来様は、私にそう呼び続けてくださいます。仏になっていく私の人生を、如来様は、けっして見捨てず愛し、慈しみ続けてくださいます。

宗教的空間に身を置くという時間は、人間にとって、なくてはならない大切な時間だと思います。我を張って生きる日々の中に、山門をくぐり、お寺にお参りする時間を大切にさせていただきましょう。

2021年5月1日

お寺にお参りできている身の尊さ

先日の春季彼岸会でのことでした。夜の法座に、普段は見かけない二十歳代前半と思われる男性の方が、座っておられました。法座が始まる前、側に近づき、「失礼ですが、どなた様ですか?」とお尋ねをさせていただきました。すると、その方は、次のように答えてくださいました。

「自分の知り合いの知り合いに、ここの保育園関係の方がおられて、その知り合いから、ここのお寺で、お話が聞けるということを聞かせていただいて、来てみたんです。」

重ねてお尋ねをしました。

「保育園関係の知り合いというのは、誰ですか?」
「自分は、直接、その方とは知り合いではないので、名前も顔も知らないのです。ただ、人づてに、ここのお寺でお話が聞けると聞いただけなんです。」
「この近くにお住まいなんですか?」
「少し離れたところから来ました。」
「仏教に、興味があるんですか?」
「はい、、、、少しだけ。」

お念珠も聖典も、お持ちでなかったので、お寺のものをお貸ししました。お念珠の持ち方も、手の合わせ方もまったく分からないご様子でした。「お念珠は、左手に持つんですよ。」「手を合わせるのは、胸の前でこのようにして、お念珠は、両手にこのようにして掛けるんですよ。」などなど、基本的なことを一つ一つお教えいたしました。それを一つ一つ、とても素直に聞いてくださいました。その後の『讃仏偈』のお勤めも、分からないなりに、一緒にお勤めくださり、途中で帰ることなく、最後まで仏様のお話を聞いてくださいました。法座が終わった後、「またよかったら、お越しくださいね。」とお声をおかけすると、とても和やかな笑顔で「はい」とお答えくださいました。

御門徒の方であっても、初めてお寺にお参りするときは、緊張するものです。なかなか最初の一歩が踏み出しにくいものです。それを、まったく知らないお寺という異空間に、たった一人で飛び込んでこられるというのは、すごいことです。よっぽど不思議なご縁が働いたのでしょう。

浄土真宗のお寺は、本来、誰もがお参りしやすい場所ではありません。なぜなら、私達が当たり前に受け入れている世間の価値観が否定される場所だからです。一方で、同じお寺でも、お守りを売っていたり、仏様が願い事を叶えてくれることを謳うお寺は、たくさんの人がお参りしています。それは、世間の価値観がそのまま肯定される場所だからです。世間の価値観というのは、自分に役立つ都合のいいものを貪り愛し、反対に都合の悪いものを憎み拒絶する性分が基準となる価値観です。健康、富、地位、家庭円満、病気平癒など、自分に都合のいいものを与え、都合の悪いものから守ってくれる場所には、誰でもお参りしやすいのです。しかし、浄土真宗のお寺には、お守りもおみくじもありません。私のわがままを聞いてくれる仏様もいらっしゃいません。そのような場所に、少ないながらも、人がお参りするというのは、実に不思議なことです。

誰もが幸せを求めています。しかし、自分の願いのままに、あらゆる事が実現できるほど、人間は恵まれた存在ではありません。また、世の中が、そんな甘いものではないことは、誰もが思い知っているはずです。それでも、人間は、仏様の力を利用してでも、自分のわがままな願いを実現しようとします。そして、また傷つき、また自己中心の妄想を拡張し、それを繰り返していくのです。幸せを求めながら、不幸せな道に落ちていく、この切なく弱い存在を大悲されるのが、本当の仏様のお働きです。浄土真宗のお寺は、世間の価値観に振り回され、傷つき行き詰まった方が、お参りされる場所です。自分に役立つ都合のいいものばかりを求めにいく場所ではなく、そのような自分の姿を省み、人生の方向転換をしていく場所なのです。

親鸞聖人は、自分のわがままが満たされる天国とよばれるような自己中心の妄想によって作り出される世界ではなく、その醜い妄想やそれを生み出していく煩悩から私達を解放してくれる浄土という仏様の大悲が描きだしてく世界に向かう人生の大切さを教えてくださいました。お浄土は、自己中心の妄想である愛と憎しみを超えていく世界です。愛する者も憎たらしい者も、同じように慈しまれていく世界に、私達は、生まれていくのです。

人間境涯に命をいただきながら、仏様の境涯に生まれていくような人生が恵まれていくというのは、本当にまれで尊いことです。浄土真宗のお寺にお参りできている身の尊さを、お互いに喜ばせていただきましょう。

2021年4月1日