「お寺の法座」

明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、一日一日を丁寧にいただいて参りましょう。

先日、『基礎からはじめる真宗講座』にお参りくださった方から、こんな感想を聞かせて頂きました。

 「ご近所の方に誘われて、初めてお参りさせてもらいました。お寺の法座にお参りしたのは、子どもの時以来、何十年ぶりかです。子どもの時は、母に連れてこられて、よく一緒にお参りしていました。あの頃は、まだ火事になる前の本堂で、大きな柱が四本、本堂の中にあったのを覚えています。でも、法座の雰囲気は、あの頃と変わっていませんねぇ。すごく懐かしくて、温かい気持ちにさせてもらいました。」

法座の雰囲気が、あの頃と変わっていないという感想の中に、お寺が続いてきたことの大切な意味を改めて聞かせていただいたことでした。

法座というのは、有識者の講演を聞かせていただく講座とは、本来、まったく異なるものです。浄土真宗のお寺は、この法座が開かれるために建立されています。建立されてから、そこに集い仏法を聞く人々も、仏法を取り次ぐ人々も、年月が過ぎると共に、当然変わっていきます。五十年前の法座と現在の法座では、集う人々の面々もお話くださる御講師の面々も違います。しかも、本堂自体も火災で焼失し、現在の本堂は昔のものとは違っているのです。それでも、法座の雰囲気は変わらないのです。

お寺という場所は、一つには、変わらないものに出遇う場所だと言えると思います。この世界に変わらないものはありません。あらゆるものは移り変わるという諸行無常の教説は、仏教の根幹を成すものです。その諸行無常という理の中にあって、変わらないものを真実というのです。たとえば、このあらゆるものは移り変わるという諸行無常の理は、時間の経過と共に変わったりしません。それは、本当のことだからです。どれほど時代が変わり、人々の価値観が変わっても、あらゆるものが移り変わるという諸行無常の理は、変わることなく真実でありつづけるでしょう。

一方で、私達人間境涯に生きる者から紡ぎ出される言葉や価値観は、移り変わり消えていくものばかりです。この人間境涯で、最も清らかな言葉は、愛の言葉だと言われます。しかし、変わらずに愛し続けることは、至難の業です。人間境涯で最も純粋な愛の代表は、子どもを愛する親の愛情でしょう。本当に愛情深い親は、自らの身を削って、子どもの幸せを純粋に願うものです。しかし、それでも、ふとしたとき、たとえば、子どもに反抗されたときなど、図らずも愛する我が子に腹を立ててしまうものです。また、人の親は、諸行無常の中で年老い、命終えていきます。年老い、脳が老化すると、愛する我が子の顔さえ忘れてしまうこともあります。人間境涯は、まさしく諸行無常です。どれほど純粋な愛情であっても、移り変わり消えていってしまうのです。

移り変わり消えていくものの中に、本当の拠り所と言えるものはありません。お釈迦様が2500年前に説かれた内容が、今も変わらず響き続けているのは、それが変わらない真実だからです。お寺で聞かせていただくのは、移り変わってゆく人の言葉ではありません。けっして変わることのない真実、私の本当の拠り所となるものを聞かせていただくのです。

お寺の法座は、どれほど年月が過ぎ、そこに集う人々の面々が変わっても、そこで語られる真実とその真実に出遇い喜ばせていただく温もりは変わりません。過去も現在も、同じものを聞き、同じものを喜ばせていただいているのです。仏教というのは、やはり人が伝えるものです。経典やそれを伝える解説書があれば伝わるものではありません。それを聞き喜び、人生の糧として生き抜かれた多くの人々の変わらない姿が、今に至るまで、脈々と仏教を遺してくださったのです。

いつまでも変わらないものが語られ、変わらない人々の雰囲気があり、変わらない空気に包まれている、そんな空間がお寺の法座です。突然、世界中を襲った未曾有のコロナ禍の中で、人々の価値観やものの考え方が大きく変わろうとしています。人の世は、善が悪に変わり、愛が憎しみに変わります。その中にあって、変わることのない清らかな真実が響き続けるお寺の法座は、ある意味、この世の安全地帯なのかもしれません。

今年も、激動の時代が続くことでしょう。新年を迎え、改めて、お寺の法座の空間に座らせていただくことの大切さを味わってまいりましょう。

2020年12月28日

「仏様の光」

今年もあと一ヶ月を残すところとなりました。昨年の今頃は、一年後にコロナウイルスによって、世界中が混乱していることなど、想像もできなかったことです。人の世は、生滅変化していく不安定なものであることを、改めて教えられるところです。

先日、ある人から、こんなお話を聞かせて頂きました。ある日の夜、真っ暗な田んぼのあぜ道を、一人、懐中電灯を持って歩いていた時のことだそうです。真っ暗な中、道の前方を懐中電灯で照らして歩いていると、足下に土の塊が落ちていたそうです。道の両脇の田んぼの土が、塊になって道に落ちているのかと思い、そのまま、踏みつけて進もうとしたそうです。しかし、その時、何か違和感を感じたといいます。何気なく、前方を照らしていた懐中電灯を足下に向けると、懐中電灯の明かりの中に、大きなウシガエルが現れたといいます。声を上げて驚き、その場に立ち止まってしまったそうです。そのままウシガエルを踏みつけていたかと思うと、ぞっとして、しばらくドキドキが止まらなかったそうです。

真っ暗な闇の中で、土の塊だと信じ切っていたものが、本当は、生きたウシガエルだったというお話です。よく聞くようなお話だとはいえ、とても興味深く聞かせていただきました。

それは、親鸞聖人が、お書物のいたるところで、阿弥陀如来様のことを、光という言葉で説明されておられるからです。たとえば、『弥陀如来名号徳』というお書物には、「阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり」と、阿弥陀仏のことを、智慧の光だと説明しておられます。また、『尊号真像銘文』というお書物にも「光如来と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなり・・・」と、阿弥陀仏は、光如来ともいい、それは、思いはかることのできない不可思議な光の仏様であり、その光の仏様は、智慧のかたちであり、世界中にその光は満ちていると説明されています。

阿弥陀如来が、光の仏様だというのは、どういう意味でしょうか。仏教では、私達が抱える根本的な苦しみの原因を無明という言葉で表現しています。この無明は、自らにとって都合のよいものは、どこまでも欲しがり、逆に自らにとって都合の悪いものはなかったことにしたがる、どうしようもない盲目的な身勝手さのことをいいます。これは、明るさが無い闇の中にいるようなもので、無明と表現されるのです。

闇の中では、生きたウシガエルも命のない土の塊に見えます。闇の中というのは、物の本質、本当の姿が見えないのです。また、本質、本当の姿でないにも関わらず、自分が見えている物を、本当の姿だと思い込んでいる状況でもあります。どうしようもない盲目的な身勝手さを抱える人間が受け止めていく世界は、まるで闇の中で生きているようなものだというのです。

私達は、本物を見ていません。たとえば、『仏説阿弥陀経』に「八功徳水」という言葉が説かれています。これは、仏様が受け止めておられる水の有様のことです。八という数字は、無量とか無限という意味を表しています。一滴の水の中に、無量の功徳、限りない輝きを仏様は見ておられるということです。それが、本当の水の姿だというのです。私達は、一滴の水どころか、大量に出る蛇口の水でさえ、当たり前のものとして見ています。無量の功徳など微塵も見えず、感動もありません。また、空から雨が降ってこようものなら、悪い天気だと言って愚痴をこぼし、腹を立てることさえあります。そこに見えているのは、ただの液体であり、時には、自分の都合を邪魔する厄介なものです。本物が見えない闇の中にいるというのは、実に不幸なことです。

阿弥陀如来が、光の仏様だというのは、盲目的な身勝手さによって暗い闇の中に生きる私に、本当のことに気づかせ、物の本質を受け止めることのできる智慧を恵んでくださるからです。仏様の光は、言葉です。本物の輝きを受け止めている清らかな言葉が、盲目的な闇の中にいる私の心を、感受性を、豊かに育ててくださるのです。仏様のお言葉を聞かせていただく、御法座でのお聴聞が、何よりも大切だと言われるのは、このためです。

仏様が受け止め見ておられる本物の世界には、苦しみがありません。全てが清らかに輝き、愛と慈しみで満たされています。その世界を、お浄土というのです。そして、私は、そのお浄土に、必ず生まれていくことが願われてあるのです。生まれていくのは、この命終えてからです。しかし、その光に遇うのは、今なのです。無明を抱える闇の中にも、仏様の光をいただき、感動と喜びを味わえる日々を送りたいものです。

2020年12月8日

「墓じまい」

「墓じまい」という言葉が、テレビや新聞でよく聞かれるようになって、久しくなりました。正法寺の御門徒の方々の中でも、この十年の間、毎年のように墓じまいをされる方がおられます。代々、同じ場所に定住しなくなったり、何々家を継いでいくという意識が、希薄になったことが大きいでしょう。それは、お墓だけに留まりません。代々の家とその中心に安置されてきたお仏壇も、処分の対象として考えられるようになりました。

先日も、お墓と一緒にお仏壇も処分したいというご相談がありました。お墓は、代々のお骨を正法寺の納骨堂に納めることになりました。お仏壇は、誰も住まなくなった代々の家のものを処分し、息子さん家族の新しい住居に、新しいお仏壇を迎えることになりました。お墓は、お勤めの後、業者の方がお骨を取り出し、墓石を処分してくださいます。お仏壇は、お勤めの後、ご本尊の阿弥陀如来様と両脇掛けの親鸞聖人と蓮如上人を住職がお預かりをし、礼拝の対象がなくなった空のお仏壇を業者の方が処分されます。お仏壇が処分される日、お勤めの場には、コロナ禍の中、嫁がれたご兄姉や従兄弟に当たる方々など、子どもの頃から、そのお仏壇に手を合わせてこられた方々が、たくさん集まっておられました。お勤めの合間に、所々から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と聞こえてくるお念仏の声は、大変有り難いものでした。このお仏壇を、代々の家の方々が、本当に大切にしてこられたことが伝わるものでした。

ご本尊の阿弥陀如来様が、絵像のお軸の場合、裏地にご本山本願寺の御門主のお名前が記され、印鑑が押されています。これは、このご本尊が、正しいみ教えに基づいたものであり、礼拝の対象として間違いないことを、本願寺の御門主が証明してくださったことを表しています。この裏書きのないものは、礼拝の対象として認められていない偽物ということになります。たまに仏壇店などの業者により適当に作られた絵像が、安置されてあることがありますので、注意が必要です。このたび、お預かりした当家のご本尊の裏書きには、明治時代にご活躍された御門主のお名前と印鑑が確認できました。およそ百年以上、当家のご本尊として御安置され、家庭生活の拠り所として礼拝されてきたことになります。

そのことを当家の方々にお伝えすると、大変感慨深いお声と大変寂しいお声が混じり合っていました。数十年前には火事に遇われたことがあったそうですが、その時も、ご本尊は、当家の方々によって持ち出されて無事だったそうです。お仏壇を大切にしてこられたご先祖の思いを、改めて大切に受け止めてくださったようでした。

「本尊」という言葉は、「最も大切にすべき根本的に尊いもの」という意味です。それによって生まれたことの意味、日常の様々な価値観、死んでいくことの意味を確認していくものです。浄土真宗であれば、阿弥陀如来様が、そのご本尊です。自分に関係する人や命だけでなく、自分に関係のない人や命、また、自分にとって憎しみや怒りの対象となっていく人や命まで、あらゆる命を深く慈しみ、あらゆる命が抱える一つ一つの悲しみを深く悲しんでいく大慈悲と呼ばれる清らかな心を、この世界で最も尊いものとして仰いでいく姿が、阿弥陀如来様をご本尊とする姿です。

人間というのは、例外なく阿弥陀如来様と真反対の在り方をしています。自分の都合を満たす者は愛すべき者です。しかし、夫婦、親子の関係であっても、その人々が自分の都合を邪魔する者になれば、たちまち憎むべき者に変わります。また、自分に関係してこないその他大勢の命に対しては、無感情です。その他大勢の命が、喜ぼうが悲しもうが関係ありません。非常に冷淡です。本当の愛とは、決して変わらないものであるはずです。たとえ愛する者が、自分を苦しめるような者になっても、愛おしく慈しみ続けるのが、本当の愛でしょう。しかし、私達は、自分の愛おしい子どもであっても、反抗されると、思わず腹を立ててしまうのです。「小慈小悲もなき身にて」とは、親鸞聖人のお言葉です。大慈悲どころか身内すら本当に愛することのできない浅ましい自分だという告白です。

その浅ましい自分の姿にブレーキをかけ、何が本当に尊いものであるのかを、代々にわたって忘れず仰ぎ続けていくために御安置されたのが、各家々のお仏壇なのです。

誰も住まなくなった家にお仏壇は必要ありませんが、人が生活する場がある限り、そこにはお仏壇は必要でしょう。大慈悲を尊いものとして仰ぎ生きる中に、本当の人生の喜びが恵まれていくのです。

2020年11月1日

「思いのままにならない現実の新しい意味事」

今年も、残すところ三ヶ月となりました。ここのところ、どこの御門徒宅にお参りさせていただいても、共通した話題ばかりが上がります。それは、コロナと水害と農作物の不作です。今年の三月頃から始まったコロナウイルス感染症の流行は、未だに終息の目途が立っていません。また、毎年のように起こる豪雨や台風による大規模な水害が、今年も、日本各地を襲いました。それに加え、今年は、葉物等の野菜が収穫できず、お米も害虫や塩害による被害が凄まじいといいます。江戸時代までの日本なら、疫病、自然災害、飢饉という三重苦により、何百万人の死者が町に溢れかえる乱世となっていたことでしょう。

親鸞聖人が八十八歳の時、乗信房というお弟子に宛てられたお手紙には、次のようなお言葉が記されてあります。

 「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。」

去年から今年にかけて、老人も若者も男性も女性も多くの人々が死んでいったことは、悲しいことだと言われています。このお手紙には、親鸞聖人の直筆で文応元年十一月十三日という日付が記されています。この文応元年および前年の正元元年は、後に「正嘉の飢饉」と呼ばれる歴史的な大飢饉が起こった年でした。死者は、全国で溢れかえったといいます。『百練抄』という当時の歴史書には、正嘉の飢饉について、飢餓に耐えかねた京都壬生の少女が、死体を食べたことが記されています。また、この年に書かれた日蓮宗の開祖、日蓮聖人の『立正安国論』にも「天変・地夭・飢饉・疫病あまねく天下に満ちて、広く地上にはびこる。牛馬ちまたにたおれ、骸骨路に充てり。死をまねくやからすでに大半を超える」と記されています。飢饉が起こった原因は、冷害と台風による凶作です。これに疫病の流行が加わり、町中に死者が溢れかえったのです。まさに、時代が時代なら、令和二年も、歴史に刻まれるような凄まじい惨状が、日本中に広がっていたかも知れません。

世が乱れる乱世という言葉は、天変地異のような環境が乱れるだけでなく、人の心も乱れることを意味しています。人々の心が乱れ荒んでいく、そのような状況を生み出していく世の中を乱世というのです。その意味では、鎌倉時代ほどの地獄絵図でないにしても、まさしく令和二年も乱世と呼ばれるに相応しいかもしれません。コロナウイルス感染症の流行による人々の心の乱れは、誰もが認めるところでしょう。

ここで親鸞聖人のお手紙のお言葉を、もう一度よく味わってみますと、飢饉の惨状に触れたのに続いて、「生きている者が死んでいくという現実は、すでに仏様が説かれていることであるから、驚くべきことではありません」と述べられています。「おどろきおぼしめすべからず候ふ」という一言は、地獄のような乱世の中にあったとしても、心まで乱れる必要はないことが教えられています。

疫病、自然災害、飢饉、どれもが、人の願いを無残に踏みにじっていきます。願いを踏みにじられた人の心は、苦しみ、怒り、悲しみ、妬み、様々に乱れていきます。しかし、親鸞聖人が教えてくださるように、願いが無残に踏みにじられていくのは、何も特別なことではないのです。疫病、自然災害、飢饉という状況に関わらず、人間は、若くありたいという願いを踏みにじられ、健康でありたいという願いを踏みにじられ、死にたくないという願いを踏みにじられて、思いのままにならない人生に振り回されていくのです。人の願いに関わらず、本来、現実は厳しいのです。この厳しい現実の中に、どんな意味を味わっていくのかが大切なことです。事実を変えることはできません。しかし、意味を変えることはできるのです。仏様の教えの言葉というのは、私達に、思いのままにならない現実に、新しい意味を与えてくださるのです。
今年、私を取り巻く厳しい現実に、仏様は、どんな意味を与えてくれるでしょうか。それは、一人ひとりが、仏様に向き合い聞いていく他に道はありません。老い病み死んでいく私を、私自身は見捨てようとしますが、阿弥陀如来様だけは、見捨てられないのです。それは、仏様から見て、とても見捨てることのできない大切な意味が、私そのものの上にはあるからなのです。

引き続き、大変困難な状況が続いていく世の中ですが、心乱れそうになる中にも、お念仏申し、仏様の温かい眼差しの中で、自らを決して見失うことのない毎日を大切にさせていただきましょう。

2020年10月1日

「温かい仏事」

今年もお盆の季節が過ぎました。今年は、コロナ禍の中でのお盆のご縁となり、様々なことを考えさせられたことでした。特に、県外にいるご家族の方々がお盆に帰省できず、亡き方を温かく偲びながら、多くの家族で仏縁を頂くという姿が見られなかったことは、とても寂しいことでした。

浄土真宗のお盆は、単に先祖供養を目的としてお勤めするのではありません。そもそも、供養という悟りへと続く清らかな行いを徹底できない私達です。お仏壇に向かい、お経を聞かせていただいている間でさえも、雑念が消えることがありません。私は、人を救う者ではなく、仏様から救われねばならない者です。浄土真宗の仏事は、どんな場合でも、私が故人の救いのために勤めていくものではなく、逆に、救われがたい私自身が、故人から恵まれていく尊い仏縁なのです。今年のお盆のお勤めの中でも、そのような尊いご縁に出会わせていただいたことでした。

ある御門徒の初盆のご縁でした。こちらのお宅も、コロナ禍の中で、ごく限られた少人数でのお勤めです。昨年、御往生された故人は、生前中、いつもお寺の御法座にお参りをされ、お念仏を大変喜ばれていた方でした。その故人が、ご家族の方々の上に温かく働いてくださっている様子が、ありありと味わえるご縁だったのです。それは、阿弥陀経のお勤めと御法話が終わり、一人ひとりお焼香していただく時のことです。ご家族全員が、「なもあみだぶつ・・・」とお念仏を声に出して称えられるのです。それは、二十歳代のお孫さん方も例外ではありませんでした。若いお孫さんのお念仏の声は、故人から尊いお取り次ぎを頂いているようで、思わず頭を垂れ、一緒にお念仏をさせていただいたことでした。

親鸞聖人のみ教えは、お念仏を声に出して称える称名念仏が、その中心です。仏教は、本来、行(ぎょう)というものを大切にします。自らの行いが、その人を育てるからです。仏という究極の目標に向かい、仏に近づいていくような清らかな行いを教えるのが、仏教の特徴です。行というものを説かない仏教はあり得ません。仏様のみ教えに従い、正しく生き正しく死んでいこうとする仏教徒には、必ずなさねばならない行いがあります。私達、浄土真宗のみ教えをいただく者にとって、その必ずなさねばならない行いが、称名念仏なのです。「なもあみだぶつ・・・」と声に出して称える日常を歩むことが、私にとって、唯一の仏道なのです。

しかし、このお念仏を声に出して称えるという誰にでもできそうな行いが、大変難しいのです。お念仏を称えるという姿は、お念仏を称えなさいという仏様のみ教えを素直に受け入れている姿でもあります。この仏様が教えてくださることを素直に受け入れるというのが、我の強い人間にとっては、とても難しいのです。実際、お仏壇の前に座り、合掌と礼拝をされる方は、ほとんどですが、お念仏を声に出して称える方は少数です。これは、寂しいことですが、仏様のみ教えが届いていないか、聞いていても、それを受け入れていない姿と言わざるをえません。

ところが、親鸞聖人は、それが普通の一般的な姿だと言われます。人というのは、そもそも、仏様のみ教えを素直に聞き、お念仏を申すということが、できないものだと言われるのです。私がもし、お念仏を声に出して称える身であるなら、それは、他ならない仏様の働きによるものだと言われます。その働きの根本は、阿弥陀如来の清らかな願いです。私を救いたいという深い慈しみからくる一途な願いが、清らかな働きとなって、私を育ててくださるのです。

また、親鸞聖人は、お念仏そのものが、仏様だとも言われます。本当の願いは、願うだけに留まりません。私を愛し慈しむ願いは、慈愛に満ちる言葉となって、私を包んでいきます。仏様の願いが、言葉となって現れたのが、お念仏なのです。お念仏を声に出して称えるというのは、仏様の愛と慈しみに温かく包まれていくことを意味します。お念仏を称えなさいと教えられているのは、清らかな仏様に出遇い、抱かれ導かれる人生を歩みなさいということです。仏様とは、私が勝手に想像していくような空想ではありません。目の当たり出遇せていただかないと意味がないのです。死んでから遇うのではありません。仏様には、今、遇わせていただくのです。

お念仏の声が響く仏事は、そこにいる誰もが、清らかな仏様の願いに抱かれていきます。それは、お浄土へ先立たれた故人が、私達に、仏様の願いを聞かせてくださっていることに他なりません。故人のご恩を大切に味わい、お念仏の声が響く、温かい仏事を大切にさせていただきましょう。

2020年9月1日

「心から尊敬する」

先日、ある御門徒のご法事の折、次のようなご質問をいただきました。

 「以前、どこかで聞いたことがあるんですが、親鸞聖人は、『自分は、親の供養をしたことがない、それよりも万物に祈りなさい』というようなことを説かれたそうですが、本当なのですか?」

 この方が、以前、どこかで聞かれたという親鸞聖人のお言葉は、おそらく『歎異抄』の次のお言葉だと思います。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。」

仏教における教えの言葉が、正確に伝わるというのは、大変難しいことです。お経の言葉や親鸞聖人の言葉は、大変難しいですが、難しくてよいのです。分りやすいというのは、それだけ人間の価値観に近く、危うい思想である可能性が高いと思います。結局のところ、人間に人間を救う力はありません。分りにくいけれども、何か惹かれるものを感じる、そんな言葉の中にこそ、人間のはからいを超えた仏様の悟りの内容が込められているのです。

この『歎異抄』の親鸞聖人のお言葉も、大変分かりにくいものです。それは、私達の常識に当てはまらないからです。亡き父母の供養のために念仏を申したことは、一度としてないと言い切られます。しかし、私達の常識は、念仏やお経は、亡き方の供養のために唱えるものというものです。

そもそも、供養という言葉自体、私達の常識では理解できない意味が込められています。私達の常識では、供養というのは、亡くなった方を助け救っていくという意味を持っています。しかし、供養とは、もともとインドの「プージャナー」という言葉を中国語に翻訳したものです。プージャナーを直接日本語に翻訳すると、「心から尊敬する」「敬う」という意味になります。つまり、供養とは、心からの尊敬を捧げることをいうのです。仏様や仏弟子といった心から尊敬する対象に対して、食事やお花やお香など、尊敬の想いを形に表して捧げていくことを、本来、仏教では供養というのです。亡くなった方を助け救うという意味は、本来、込められていないのです。本来、込められていない内容を、自分勝手な解釈で、世間的な常識にして、分ったつもりになっているのが、私達の危うさです。教えの言葉というのは、どこまでも頭を下げ聞かせていただくものです。自分の価値観に合うように、自分が理解しやすいように、勝手に解釈していいものではありません。迷信というのは、こういった人間の勝手な思い込みから生まれる、誤った宗教的理解であることがほとんどなのです。

念仏は、亡き父母の供養のために唱えるものではない、という親鸞聖人のお言葉は、人の常識ではなく、仏様のお言葉を素直にいただく中から生まれたものです。仏様の言葉を素直に聞かず、人の常識に囚われ、亡き方を助けるために念仏している人々に対して、親鸞聖人は、非常識な言葉をもって、それを破ろうとされます。「そのゆゑは、」に続くお言葉が、それです。本来、本当の愛情とは、自分に関係のあるものだけでなく、あらゆる命に及んでいくものでなければなりません。そして、その本物の愛情が持てるのは、あらゆる人々から敬われる仏様だけなのです。そもそも、今、目の前にいるものさえも救えないような人間が、どこでどうしているのか分らないような亡き方を救うことなど、できるわけがないのです。念仏を唱えて、亡き方を救ったような気になっているのも、人間の危うい思い込みにすぎません。

しかし、亡き父母のことを想わなくても良いとは言われません。亡き父母を救うことができるのは、今の私ではないと言われるのです。今は、大切な父母さえも幸せにできない愚かな身ですが、父母含め、あらゆる命の上に本当の安らぎをもたらし、あらゆる命を心から愛することのできる尊い仏様と成ることが、阿弥陀如来によって約束されているのです。私は、愚かなまま死んで終わっていくことが願われているような虚しい存在ではありません。万物を救っていく仏様に成ることが、一心に願われてある大切な存在なのです。

親鸞聖人のお言葉は、虚構ともいうべき偽物の安心の中で生きることの危うさを教えてくれています。お念仏は、愚かな私が使う道具ではありません。本物の安心をもたらす敬うべき仏様からの贈り物です。お念仏を申す中に、虚構が破られ、真実の世界に眼が開かれていくのです。共々に、素直に聞かせていただく毎日を、大切にいたしましょう。

2020年8月1日

「人としての在り方」

新型コロナウイルスの感染拡大も、幾分か落ち着いてきました。しかし、感染拡大に対する張り詰めた緊張感は、まだ続いているように思います。先日も、ある御門徒宅のご法事にお参りさせて頂いた時、ご当主から、マスクを着用した上でのお勤めをお願いされました。職場からの指示だということでした。医療現場や介護・老人施設で働いておられる方々にとっては、未だ緊張が解けない日々が続いていることを、改めて実感させていただきました。

そのご法事の折、帰り際に、ご当主と次のようなやりとりがありました。

 「新型コロナウイルスに感染して亡くなった方の葬儀は、どういう形になるんでしょうか?テレビなどでは、すぐに火葬するようなことを言っていましたが。」
「そうですね。おそらく、火葬後、お骨のお姿になってからの葬儀になるのではないでしょうか。」
「遺族の方は、死に目にも会えないどころか、遺体を目にすることすらできないということですよね。ちゃんとお別れができないのは、つらいですね。」

今生の別れの在り方について、改めて考えさせられたことでした。今生の別れ、いわゆる大切な人との死別の経験は、私達人間境涯に生きる者にとって、もっとも深い悲しみをもたらすものでしょう。二年前にもご紹介させていただいたアメリカの自然人類学者バーバラ・J・キング博士の実証実験の結果をまとめた『死を悼む動物たち』には、カラスやカメ、ゾウに至るまで、様々な動物が大切な仲間との死別を悲しんでいることが紹介されています。死別による深い悲しみは、人だけではなく、あらゆる命あるものに共通しています。『仏説無量寿経』の中で、阿弥陀如来の願いが、「十方衆生」と、人だけでなく、あらゆる命あるものを対象とされているのは、そのことを教えているのでしょう。

仏教では、命は、無数の縁によって恵まれていることを教えています。縁というのは、原因とも言い換えることが出来ます。結果には、必ずそれをもたらした原因があります。仏教では、いわゆる結果だけが突然現れる奇跡というものを認めません。私には、不思議でたまらない奇跡のような出来事にも、必ず原因があるのです。あらゆるものは、必然です。しかし、命が生まれるという結果の背景にある原因は、人が計らえるほど単純なものではありません。決して計らうことのできない無数の原因が、果てしなく幾重にも積み重なり、一つの命は、はじめて誕生するのです。それは、人の命だけではありません。動物も草花も虫の命も、一つ一つの命の誕生の背景には、何人も計らうことの出来ない無数の原因が果てしなく積み重なっているのです。それ故に、一つとして、同じ命は生まれないのです。果てしなく積み重なっていく無数の原因の一つ一つが、全く同じく重なることはあり得ないからです。一人ひとり、一つ一つの命の背景に関わっているものは、みんな違いながら、それぞれに非常に重いのです。それだけ、どんな命も、他とは比べることの出来ない掛け替えのない重みを背負って生まれてきているということです。死とは、その掛け替えのない命を、それぞれが、力の限り生き抜いた結果です。

その死を迎えた人を前にして、残された者が、どんな態度を取るのかは、人に課せられた大きな問題だと思います。最近は、都会を中心に、葬儀を勤めず、直接火葬する直葬が増えてきたといいます。この問題を、仏教寺院存続の危機として語られることも多いですが、本当の問題は、そんなところにあるのではありません。葬儀を省略する、今生のお別れをきちんとしない、という態度は、考えてみると非常に恐ろしいことだからです。単に死んだから燃やしてしまうという態度は、役に立たなくなったものをゴミ袋に入れて捨ててしまう態度と根本的には同じです。そこには、計らうことの出来ない無数の原因によって結ばれた掛け替えのなさに対する敬意も、その掛け替えのない命が、力の限り生き抜かれたことの尊さに頭が下がる感動も、人が本来持つべき感受性が、全く欠落しています。人としての感受性が欠落した存在を、仏教では、鬼というのです。鬼が増え続ける世界は、地獄に他なりません。地獄の存在を平気で否定する人々が、地獄の世界を現実に作り出していくのです。

葬儀を勤めず火葬にせざるを得ない、そんな状況に心を痛めていく、この感受性を人は失ってはいけないと思います。未曾有のコロナ禍の中で、改めて、様々な場面で人としての在り方が問われています。仏法を聞かせていただく中に、人としての在り方を見つめさせていただきましょう。

2020年6月29日

「信心の智慧」

新型コロナウイルスの感染拡大の影響が続いています。病の苦しみは、仏教では、人間の根本苦である四苦の一つとして示されています。

四苦とは、生まれること、老いること、病に罹ること、死んでいくことの四つの苦しみを言います。シャカ族の王子であったお釈迦様が、出家をし修行者になっていかれたのは、この苦しみの原因を突き止め、克服するためでした。自分自身が、この四つの現実を、苦しみとして受け止めていく根本原因はどこにあるのか、それが、お釈迦様の出発点なのです。今から約2500年前の12月8日、35歳のお釈迦様は、菩提樹の下でお悟りを開かれました。それは、苦しみの根本原因を突き止め、苦しみを克服し、真の自由を獲得したことを意味していました。生老病死の現実に苦しむことのない安らかで自由な境地を知る人として、人々は、お釈迦様のことを仏陀と呼ぶようになります。仏陀(ブッダ)というのは、サンスクリット語で目覚めた者という意味です。この仏陀が、仏様という言葉の語源です。仏様とは、苦しみを克服した真実に目覚めた存在のことをいい、仏教とは、苦しみを克服する目覚めの道が説かれたものなのです。

親鸞聖人が、二十年間、比叡山で厳しい仏道修行の日々を過ごされたことも、その後、法然聖人に出遇われ、比叡山を下り、在俗の中でお念仏の道を歩まれたのも、それは、苦しみを克服する目覚めの道を歩まれたことに他なりません。親鸞聖人によって、在俗に生きる私達にも、生老病死の苦しみを克服する道が恵まれていることを、今一度、大切に味わっていきたいものです。

以前、ある御門徒の方から次のようなお話を聞かせて頂いたことがあります。

「私が仏法を聞かせていただくようになったのは、母の姿があったからです。私の母は、お念仏中心の人生を生きた人でした。母が亡くなる少し前、亡き父の年回忌の法事が自宅で勤まりました。法事が終わって、前住職が帰られるとき、母が前住職に語った言葉が今でも忘れられません。母は前住職にこう言いました。『ご院家さん、これがお会いできる最後かも分りません。もう長くないことは、自分が一番よく分っています。ご院家さん、お浄土で必ずあなたをお待ちしておりますが、ご院家さんは、できるだけゆっくりおいでくださいね。』本当に、その時が、母にとって前住職と言葉を交わした最後の日になりました。『できるだけゆっくりおいでください』と柔らかい眼差しで語っていた母の姿が、今でも忘れられません。」

このお話からは、出家をした修行者ではなく、在俗の中で生きる純粋な念仏者が、人間の根本苦を克服している有り難い姿を味わうことができるかと思います。

仏教では、生老病死は、苦しみという現実ではありますが、苦しみを生み出す原因とは見ていません。生老病死は、単に生老病死という現実でしかありません。それを苦しみとして描き出すのは、他ならない私自身の感受性なのです。「人生は苦である」とお釈迦様がお示しされたのは、人というのは、共通して生老病死を苦しみとして受け止める貧しい感受性を持っている存在であることを示されたのです。

人生には、浮き沈みがあるものだとよく言います。今は辛くても、必ずよくなる時は来ると。しかし、必ず最後には老病死が待っています。老いは、二度と若さに向かうことはありません。治ることのない病も待っています。そして、死が訪れれば、よくなる時は、もう来ることはありません。そんなことは当たり前、しょうがないと勝手にけりをつけて、自分の人生に向き合おうとしないことは、恵まれた掛け替えのない人生に対する冒涜ではないでしょうか。命がけで仏法を相続してこられた人々の想いは、そこにあるのだと思います。

死んでいくことは、お浄土に生まれていくという尊い意味があり、この世もまた「ゆっくりおいでください」と言い切れるような有り難い世界なのです。親鸞聖人は、「信心の智慧」というお言葉を、よく使われています。それは、仏様の真心を素直に受け入れていく信心というのは、仏様の物の受け止め方、人にはない仏様の感受性を頂いていくことに他ならないからです。私達念仏者は、お念仏申す中に、一般の人には感受することが出来ない、素晴らしい世界を感受できる智慧を頂いていくのです。

新型コロナウイルスという新しい疫病が、人々を不安に貶めている苦難の時代を迎えています。共々に、今一度、仏法を聞かせて頂くことの大切な意味に向き合っていきましょう。

2020年6月3日

「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」

先日、大変お念仏を喜ばれた御門徒のお一人が、御往生されました。その方のお念仏の声が、もう聞けなくなることを思うと、大変寂しい気持ちがします。お盆やお取り越し報恩講のご縁にお参りに上がらせて頂いた時も、お勤めの後は、世間話はほとんどなく、いつも仏法の味わいをしみじみと語ってくださいました。沈黙されることが、ほとんどありませんでした。お話が途切れると、「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と、自然とお念仏が口から溢れておられました。まさしく、お念仏に抱かれ、仏様と共に掛け替えのない人生を生き抜かれた念仏者でした。

その方が、特に繰り返し味わい喜んでおられた蓮如上人のお言葉があります。それは、『御文章』の「信心獲得章」と呼ばれるものの中の次の一節です。

 「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて『煩悩を断ぜずして涅槃をう』といへるはこのこころなり。」

いつも、この方のお宅で『御文章』を拝読させていただく機会があるときは、この「信心獲得章」を、できるだけ拝読するようにしていました。最初から最後まで拝読するのに、約三分~四分程度かかります。普通、『御文章』を拝聴される時は、誰もが頭を垂れ、沈黙されます。その方も、頭を深々と垂れ、黙って拝聴されておられましたが、先の一節の部分になると、決まって「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」とお念仏の声が溢れておられました。特に、「これによりて『煩悩を断ぜずして涅槃をう』といへるはこのこころなり」の一文になると、お念仏の声が大きくなっておられました。その大きく響くお念仏の声の中、拝読する住職も、蓮如上人のお言葉に込められた深い意味を、改めて大切に聞かせていただいたものです。

「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」、この一言の中には、仏道と真摯に向き合う者にとって、金を掘り出すような尊い意味が込められているのです。「涅槃を得る」とは、「悟りを開く」ということです。「悟りを開く」というのは、お釈迦様のような仏様に成るということです。仏教とは、本来、お釈迦様のような仏様に成ることの正しさを教え、その仏様に成るための道を教えるものです。仏様とは、どんな命も無条件に慈しみ、あらゆる悲しみを引き受け、あらゆる命と共にありつづけるような存在です。そこには、愚痴も不満もありません。澄み切った心の状態がぶれることもありません。愛と憎しみも超えていきます。生と死の壁もありません。私達には、想像できない深い境地が悟りの世界です。仏様のみ教えと真摯に向き合うということは、その境地に至る道と向き合い、その境地とは、ほど遠い自分自身の愚かな姿としっかり向き合うということです。

仏様と私との決定的な違いは、煩悩です。私を煩わせ悩ますものです。煩いと悩みを持つ者は、仏様ではありません。凡夫です。そして、私を煩わせ悩ますものの正体は、私の心なのです。自分自身を愛し、自分自身の都合を邪魔する者を憎んでいく私の根性が、私自身を煩わせ悩ますのです。お釈迦様以来、約二千五百年の間、真摯な仏道修行者達は、この自分自身のどうしようもない根性と格闘してきたのです。
仏道というのは、本来、仏様の尊さを知らされると同時に、煩悩を抱える自分自身の愚かさを知らされ、そして、「煩悩を断じて涅槃を得る道」を力強く歩むことをいうのです。その仏教の大原則の中、親鸞聖人は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る道」を明らかにされました。どうしようもない煩悩を抱えた私も、阿弥陀如来から願われている掛け替えのない仏の子であることを教えてくださったのです。人生における煩いや悩みも、掛け替えのない私自身です。仏様が、無条件でどんな命も慈しみ、あらゆる悲しみを引き受けてくださる存在であるなら、煩悩を抱える仏様でない私は、このまんまで仏様から深く慈しまれ悲しまれる存在なのです。その深い慈しみと願いが、言葉になり働きとなって、私に満ち満ちてくださっているのが南無阿弥陀仏のお念仏です。南無阿弥陀仏のお念仏は、どうしようもない煩悩を抱える私に、阿弥陀如来の深い慈愛の中にあることを知らせ、私を決して見捨てない本当の親がましますことを聞かせてくださる阿弥陀如来の呼び声なのです。

お念仏の声の中に、人智を越えた深い心が響いているのです。新型コロナウイルスの影響で法座のない月日が続きます。自らが称えるお念仏の声を大切に聞かせていただきましょう。

2020年5月1日

「仏教的価値観」

【住職の日記】

先日、ある方から、興味深いお話を聞かせていただくことがありました。それは、動物の命についてのことです。現在、世界的に、動物愛護の意識は高まっています。しかし、人間以外の動物の命も大切だとする点では共通していたとしても、世界の人々によって、その捉え方は様々だといいます。その価値観の違いを形作るものは、やはり宗教の違いだそうです。

キリスト教文化圏の人々がもつ価値観は、人間以外の動物の命も大切だとしますが、そこには、どうしても人間と人間以外の動物との間に大きな隔たりがあるといいます。たとえば、動物の子どもを人間が育てる時、キリスト教文化圏の人々は、動物を叱りつけることを嫌う傾向があるといいます。それは、動物というのは人間とは異なり、叱りつける奥にある愛情を感じることが出来ず、ただ苦しみを感じるだけだという考えがあるからです。一方、仏教文化圏の人々がもつ価値観は、人間と人間以外の動物との間に、隔たりがあまり感じられないといいます。動物を育てるときにも、愛情を持ちながら、時には褒め、時には叱りつけ、自分の子どもを育てるように育てていくそうです。どちらも、動物の命に思いやりをもち、その命を大切にしていく点では、共通しています。

しかし、この微妙な命に対する価値観の違いが、大きな問題になることがあるのです。その一つが、鯨漁の問題です。日本の鯨漁は、世界の人々から、大きな批判を受け続けています。日本の人々からすると、牛や豚を食肉とする西洋の人々が、なぜ、鯨になると、あそこまで批判してくるのかが理解できません。ここにも宗教観の違いがあるのです。キリスト教文化圏の人々は、牛や豚は、人間とは大きな隔たりがあると考えています。牛や豚の命が、大切でないとはいいませんが、少なくとも、人間の命と比べたとき、人間の命の方が大切だという価値観はもっていると思います。しかし、鯨は、牛や豚よりも、人間に近い動物だと考えているのです。人間に近い感情を持ち、人間の仲間になれる高等な動物なのです。ですから、鯨漁は、人間に近い動物を虐殺する残酷な行為として許すことができないのです。

仏教文化圏の人々からすると、牛や豚は、殺してもよくて、鯨は、殺してはいけないという価値観が、理解できません。それは、命を見つめる価値観の根底に、縁起という仏教思想が流れているからです。お釈迦様の悟りの内容は、この縁起の道理だと言われます。この道理を体得することが、悟りなのです。縁起というのは、縁って起こるという意味です。この世界のあらゆるものは、独立して存在することはありえません。すべてのあらゆるものは、どこかで支え合い、補い合いながら存在しています。私という言葉も、私以外のものが存在しなければ、成立しません。その意味では、あなたと呼べる存在によって、私という言葉が存在しているのです。あなたなしに私は存在しえないということです。

これを突き詰めていくと、無数の命と無数の出来事が無数に折り重なって、私というものが存在しえているのです。あらゆるものは、どこかで繋がりを持っており、この世界で、私と関係のないものなど一つとしてない、という世界を体得しておられるのが、仏様と呼ばれる存在です。体得するというのは、頭で理解することではありません。実感として、その世界を感受していくことです。縁起を体得した仏様には、大慈悲と呼ばれる、無限の繋がりをもった無限の命を、自分のこととして慈しみ深く悲しんでいく清らかな心が起こっていきます。あらゆる命が、自分のことのように愛おしいのです。そこには、自分と自分以外の区別すら存在しません。あらゆるものが、自分であり、あらゆるものが尊い輝きを放っています。

私達には、その世界を聞いて、なんとなく理解することが出来ても、その世界を体得し、大慈悲という心を起こしていくことはできません。どこまでも、自分と自分に関係する者が愛おしく、それ以外には、冷酷なのです。しかし、そんな私達が、命を区別することに違和感を感じるなら、それは、私達の上に、仏様の大慈悲のお心が響いているということです。仏様の眼差しが、私達を育ててくださっているということでしょう。

自分では当たり前に思っていることも、他と比較すると、当たり前でないことに気づくことがあります。知らず知らずのうちに、仏様の働きの中で育てられているということも有り難いことです。今後、ますますグローバルな時代が訪れてくることでしょう。知らず知らずに私達に根付いている仏教的価値観も大切にしたいものです。

2020年4月1日