「私は何をすべきか」

【住職の日記】

先日、お寺に一本の電話がありました。それは、次のようなご相談の電話でした。

「突然、お電話して申し訳ございません。私は、老人施設に入っている者です。もうあまり長くは生きることができないと思っています。いよいよ、自分の死が現実のものになってきて、自分の生き方や死の受け止め方について、色々と悩むようになりました。私の実家は、浄土真宗ですが、お恥ずかしながら、教えを聞く機会がないまま、こんな歳になってしまいました。何か自分が安心できるものが欲しくて、インターネットで死生観について検索してみましたが、ほとんどがキリスト教のものばかりが出てきます。キリスト教の死生観についても、一通り、色々と読みましたが、何かしっくりきません。やっぱり、自分には実家の浄土真宗が合うのかと思い、『歎異抄』を一通り、読ませていただきました。浄土真宗の死生観について、インターネットで検索していると、正法寺様のホームページが目にとまりました。電話番号が書かれてあったので、思い切って電話してみました。死が浄土に生まれるご縁であることは分かるのですが、死を迎えるまで、何をして生きるのが正しいことなのですか?私は、残りの人生、何をすればよいのでしょうか?」

人は、自分自身の死と向き合ったとき、初めて、自身が抱える命の問題に出会うのかもしれません。多くの命がある中で、自分が死んでいくことを知っているのは、人だけだと言います。死んでいく自分は、何のために生まれてきたのか、死んでいく人生にどんな意味があるのか、答えようのない根本的な命の問題と向き合うのが、人らしさであり、人だけが持つ宗教の営みが、ここにあります。

宗教という言葉は、現代では、あまりに多くの意味を含んでいます。いわゆる世間の常識から逸脱している価値観を教えるものは、すべて宗教という言葉でくくられます。それが、本当に人の人生を正しい方向に導くものかどうかは、問われることはありません。信じるか信じないかは、個人の自由なのです。自由であるというのは、とても大切なことですが、それは、個人個人に大きな責任が課せられているということでもあります。選んだ宗教によって、人生が破壊されるようなことがあっても、誰も責任をとってくれません。それもまた個人の責任です。

それでは、人生を正しい方向に導く宗教と人生を破壊していく宗教との違いは、どこにあるのでしょうか?正しいというのは、安定している状態のことをいいます。不安定な状態は、正されなければならない状態であり、正しい状態とは言えません。生と死に関して言えば、生も死もどちらも有り難いものとして受け止めていれば安定しています。そこに不安はありません。しかし、生だけが有り難く、死は無意味で悲惨なものと受け止めているならば、それは、不安を抱えた状態です。生を支えるものだけを求めさせるものは、人生を破壊していきます。なぜなら、死のない生はあり得ないからです。生も死も有り難いと言える世界が開かれてこそ、本当の意味で、人は安定した状態に導かれていくのです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、お念仏を申す人生を歩むことが、正しい方向に導かれていくことだと教えてくださいました。また、そのことが本当であることを、ご自身の九十年のご生涯を通じて証明してくださいました。親鸞聖人に、人生において、私は何をすべきかと問えば、お念仏を申すことだと仰るでしょう。

お念仏とは、阿弥陀如来が言葉になって、私に寄り添っている姿です。寄り添うというのは、人生の様々な場面を通して、私を呼び覚まし続けるということです。仏様の安定した悟りの世界が、不安定な私を、正しき方向へと呼び覚ましていくのです。悲しいことがあれば、悲しみの中に響くお念仏の声は、悲しみの中にも合掌していける意味があることに気づかせてくださいます。嬉しいことがあれば、喜びの中に響くお念仏の声は、欲を満足させるのではなく、感謝の念をもたらせてくださいます。私達は、モーターボートのように身軽ではありません。積年の罪と障りをいっぱいに乗せた石油タンカーのようなものです。お念仏の人生は、ゆっくりゆっくりと、私を、方向転換させてくださるのです。

自分の生と死にまじめに向き合い、お念仏を申す中に、安定した正しき方向へと歩む日々を大切にさせていただきましょう。

2023年8月31日

「仏様のお仕事をしているの」

【住職の日記】

先日、幼い時にお父さんを亡くしている小学生が、「僕のお父さんは、仏様のお仕事をしているの。」と話してくれたことを聞きました。その男の子は、お寺の子どもさんですので、ご家族の方々が、そのように男の子にお話をしてきたのでしょう。誰もが、早かれ遅かれ、必ず命終えていかなければなりません。私達は、命終えていくことの意味を、子どもに語る言葉を持っているでしょうか?改めて、仏法を聞くことの大切な意味を教えられたような気がいたしました。

死者のことを語る言葉は、「天国に行った」「お星様になった」など、人間世界に溢れています。いずれも、先立った方の幸せを願い、また、その存在をいたわる思いから紡がれるものでしょう。誰もが、大切な方の死に直面したとき、その方の幸せを願わずにはおれません。

しかし、本当の幸せとは何でしょうか?これは、なかなか難しい問題です。古今東西、様々な宗教家や哲学者が、この問題と向き合い、様々な答えを出しています。実は、仏教も、お釈迦様の青年時代の深い苦悩から始まっており、仏教とは、お釈迦様が求められた幸せになるための道なのです。

一人のインドの国に生まれたゴータマ・シッダールタという名の苦悩を抱えた青年は、二十九歳で出家し、三十五歳の時、悟りを開き仏と成りました。悟りを開き仏と成った彼に出会った者は、みんな彼のような仏に成りたいと思ったのです。それが仏教の始まりでした。なぜ、お釈迦様に出会った人々は、みんな感動し、お釈迦様のような仏に成りたいと思ったのでしょうか?それは、お釈迦様が、誰よりも幸せに満ちておられたからでしょう。みんなお釈迦様のような、幸せな人に成りたいと思ったのです。

仏教徒にとっての本当の幸せとは、仏様に成ることに他なりません。仏様とは、智慧と慈悲を完成した者とされます。智慧というのは、簡単に言うと感受性のことです。仏様の智慧というのは、あらゆるものを平等に感受できるものと言われます。好き嫌いがありません。愛と憎しみもありません。私達には想像することもできない世界ですが、あらゆるものが一つに溶け合っていくような領域だと言われます。そして、その真の平等の世界から生まれてくる心が慈悲と言われるものです。慈は、心から相手の幸せを願える慈しみの心です。悲は、心から相手の悲しみを悲しめる呻きの心です。どんな人も、どんな動物も、どんな虫も、どんな草花も、命あるものをみんな平等に尊く感受し、どんな命も同じように愛おしく慈しみ、愛おしく悲しんでいける、そんな命の領域に生きる姿を仏様と言うのだそうです。

そして、本当の仏様とは、如来と表現されます。如来とは、真如より来たる者という意味です。それは、願いだけでなく、本当にあらゆる命を幸せにする力を持った者ということです。あらゆる命を愛おしく慈しみ、あらゆる命の悲しみを我がごととして呻いていく者が求める幸せは、あらゆる命の安らぎしかありません。あらゆる命の幸せが、そのまんま仏様の幸せなのです。

仏様に成るというのは、まず、あらゆる命を平等に愛せる者に成るということです。そして、愛せるだけでなく、愛するあらゆる命を幸せにできる力を備えていくということです。親鸞聖人は、八十五歳以降に書かれた『正像末和讃』というお書物の中で、ご自身のことを「小慈小悲もなき身にて・・・」とご述懐されています。「小慈小悲もなき身」というのは、この世界で最も愛おしい我が子でさえ、本当の意味で幸せにすることができない愚かな我が身という意味です。愛おしい者を幸せにできないことが、不幸なことであり、自分だけが幸せになる道はあり得ないのです。

今は、愛おしい我が子でさえ幸せにすることができない愚かな私ですが、この命終えるご縁をいただいたとき、今度は、お浄土に生まれさせていただき、愛おしい命を幸せにできる仏様に成らせていただくのです。これが、我が身を愚か者と述懐される親鸞聖人が、喜んでいかれた幸せの実現の形なのです。

「仏様のお仕事をしているの」という男の子の一言には、本当の幸せを実現されたお父さんの姿と、今もそのお父さんに愛され続けている自分との出遇いが込められています。お寺にお参りをし、お聴聞させていただく中に、本当の幸せを確認していく日々を大切にさせていただきましょう。

2023年8月1日

「老いることが悲劇ではない」

【住職の日記】

先日、中学生とお年寄りの方との交流会にご参加された御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

 「先日、中学校から、最近の中学生はお年寄りの方と接する機会が減っているので、お年寄りの方と接する機会を作りたいというお話がありました。何人かの知り合いに声をかけて参加させてもらったんですが、後で、中学生からいただいた感想文を読んで、ショックを受けました。『お年寄りは、かわいそうだと思いました。』と感想を書いている中学生が、とても多かったんです。年を重ねるということの幸せを、色々と中学生にお話しましたが、どこまで伝わったのか分かりません。何か寂しい感じがします。」

子どもの感性は、周りの大人の感性によって育てられていくものです。子どもだけではなく、現代は、大人も、「お年寄りは、かわいそう」と受け止めていく人が多いのではないでしょうか。しかし、これは、現代だけの問題ではないのかも知れません。本来、人間が持つ感性は、このような、どこか貧しいものなのでしょう。

二五〇〇年前、青年だったお釈迦様が悩まれたものの一つも、この老いるという避けがたい現実でした。お城に住む王子様だったお釈迦様の周りには、幼少期から青年期に至るまで、若い男女しかいなかったと言われています。それが、青年となり、はじめて街に出て、老人に出会うのです。顔には皺が深く刻まれ、腰が曲がり、おぼつかない足取りで歩く人間を初めて見たとき、青年だったお釈迦様は、衝撃を受けます。家来に、「あれは、何だ?」と尋ねたと伝えられています。もしかすると、青年だったお釈迦様も、老人を見て「かわいそう・・・」と思われたかもしれません。しかし、次の家来の言葉によって、老人の姿が、お釈迦様自身に深い悩みをもたらしていきます。その言葉は、「あなたも必ず老人になっていくのです。」という一言でした。

老いるという現実が、他人事であるうちは、「かわいそう・・・」で済んでいくかもしれません。しかし、それが自分事であるなら、「かわいそう・・・」では済みません。誰もが、かわいそうな自分には、なりたくないからです。しかし、生き続ければ、必ず老いていくのです。老人を「かわいそう・・・」と受け止めていく人にとっては、自分が老いていくことは、悲劇以外の何者でもありません。二五〇〇年前に一人の青年を襲ったこの悲劇が、仏教の出発点となっていくのです。

この悲劇を抱えた二十九歳のお釈迦様は、王子という地位や名誉、財産、また家族までも捨てて、一人、悟りを求めていかれます。そして、三十五歳の時、菩提樹という木の下で、悟りを開かれたと伝えられています。悟りというのは、経験した者でしか、その全容は分かりません。親を経験したことない子どもが、親が見ている世界が、分からないことと同じです。しかし、分かることはできませんが、経験をしている人の言葉や振る舞いに触れることによって、その世界を垣間見ることはできます。

仏教というのは、悟りの世界を経験していない人間に、その世界を分からせようとする教えではありません。どうすれば、お釈迦様と同じ悟りの経験を得ることができるのか、その道を教えようとしているのです。それと同時に、その悟りの世界を垣間見ることができるような言葉を紡いでくださり、私達に、本当の正しい世界がどういうものかを知らせようとするものなのです。

悟りを経験されたお釈迦様の言葉の中には、老いることが悲劇であるような言葉はありません。むしろ、老いることの中に喜びを味わっておられる世界を垣間見ることができます。老いることが悲劇ではないのです。老いることを悲劇としか受け止めることのできない感性が、悲劇なのです。仏様というのは、喜びに満ちた存在です。本当の自分、そのままの自分を喜べる世界を教えてくださいます。本当の自分、そのままの自分とは、老いて病んで死んでいく思いのままにならない自分です。

呪いや祈祷によって、現世の御利益を謳う宗教は、これら思いのままにならない現実から、逃げることのできる道があると教えるものです。それは、本当の自分から逃げることを教えていくものでしょう。しかし、仏教は、本当の自分から逃げる道ではなく、本当の自分を受け入れ喜ぶことのできる道を教えてくださるのです。

思いのままにはなっていかないのが、私の人生です。仏様のお言葉に触れる中に、年を重ねても、幸せそう・・・と思われるような喜びに満ちた日々を大切にしていきましょう。

2023年7月1日

「驚くべきことに驚き、喜ぶべきことに喜んでいく。」

【住職の日記】

先日、日曜学校の子ども達に、妙好人として有名な足利喜三郎(あしかが きさぶろう)さん、通称、因幡の源左(いなばのげんざ)さんのお話をさせていただきました。源左さんは、鳥取県の浜村温泉に近い山合いの小さな村に生まれ育った根っからのお百姓さんで、文字は、読むことも書くこともできなかった人でした。江戸末期の天保十三年に生まれ、昭和五年に八十九歳で御往生されています。

源左さんが、本気で仏教を聞くようになったのは、十八歳の時、頼りにしていた父親が、コレラで亡くなったのが大きな機縁になったと言われています。最初は、お寺にお参りし、仏様のお話を何度聞いても、なかなか仏様のお心を味わうことができなかったそうです。しかし、様々な人生の苦悩をご縁として、真剣に仏法を求め続ける中で、実感として仏様の存在を味わえるようになっていかれます。

真の念仏者に育っていかれた源左さんの口癖は、「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」だったそうです。私達は、自分に都合の良い出来事は、「ようこそ、ようこそ」と喜んで受け入れていくことができます。しかし、源左さんの「ようこそ、ようこそ」は、逃げ出したくなるような人生の苦難の中にあっても、同じように「ようこそ、ようこそ」と受け入れていくものでした。私達の人生は、思いのままにならない生老病死に貫かれています。このけっして逃げることのできない根本的な人間苦を、どのように乗り越えていくかが、仏教が課題としているものなのです。思いのままにならない自分の生まれも老いも病も死でさえも、大切なありがたいものとして「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と受け入れ、自分の人生に合掌していかれたのが、妙好人源左さんのお姿だったのです。

こんな内容のお話を、子ども用にかみ砕きながら、日曜学校でお話させていただきました。お話をさせて頂いた時、一番前に座って聞いてくれていた女の子が、一言「すごっ!」と声を上げてくれたのです。とても子どもらしい素直な反応に、こちらが感動させていただいたことでした。

仏様のお話というのは、誰もが、それを聞いて感動出来るものではありません。人間境涯においては、社会的な地位や名誉、また、財産を手に入れることの方が、価値があるものとされます。社会的に地位がある方、大企業の社長や大臣といった方々は、人間社会からとても大切にされます。警護の方がつき、命を守ってくれます。移動も運転手付きの立派な車だったりします。それは、人間社会から価値あるものとして認められているからでしょう。逆に、根っからのお百姓さんであった源左さんのような方には、警護の方もつきませんし、運転手付きの車も用意されません。普通は、文字の読み書きもできないお百姓さんの話よりも、大企業の社長さんような立派なサクセスストーリーを聞くことの方が、人間は、興味を持ち感動するものなのです。

そんな中で、仏様の悟りの世界に触れて、「すごい!」と感動出来るというのは、それこそ、すごいことだと言わなければなりません。それを親鸞聖人は、不思議という言葉で表現されています。私達が、仏様のお話を聞いて、それを有り難いものとして感動し、頷いていくというのは、当たり前のことではなく、不思議なことだとおっしゃるのです。親鸞聖人は、その不思議は、阿弥陀如来様の願いの働きによるものだともお示しくださいます。仏様のお話を聞き、感動できる姿は、阿弥陀如来様の願いに抱かれている姿でもあるのです。

喜ぶべきことに喜び、驚くべきことに驚いていく、人が人である所以は、そんな豊かな感受性にあるのではないでしょうか。浄土という言葉で表わされていく仏様の世界は、あらゆる命がキラキラ輝いている世界として説かれていきます。それは、私達命あるものの充実した姿、満たされた本当の幸せな姿が、どんな姿であるのかを教えてくださるものなのです。

人が本当に輝いていくのは、社会的な成功や欲望が叶えられた時ではなく、本当の喜びと感動に心が満たされていく時でしょう。たとえ、社会から必要とされないような立場であっても、本当の喜びと感動に心が満たされている人は、輝いています。仏様の救いの世界は、一人一人のどんな人生の上にも、本当の輝きをもった命の有り様を恵んでくださるものなのでしょう。

限りある毎日です。欲にまみれた願いを追い求める日々ではなく、仏様のお話を聞いて、驚くべきことに驚き、喜ぶべきことに喜んでいく、何十歳になっても仏様の願いに抱かれる本当の輝きに満たされた日々を大切にさせていただきましょう。

2023年6月1日

「仏様のお心を味わえる日々」

【住職の日記】

先日、ある僧侶の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

「僕は、大学は宗門の龍谷大学ではなく、一般の国立大学に通っていたんです。その大学時代に、僕は、仲の良かった友人を亡くしているんです。突然死でした。大学生だった自分にとって、仲の良かった友人が、ある日突然亡くなるというのは、本当にショックなことでした。友人の家は、大学から電車で一時間ぐらいの所にありました。しばらく本当に辛くて、毎週、電車に乗って、友人の家のお仏壇にお参りをさせてもらっていました。友人の家も浄土真宗でしたから、お仏壇の前に座らせてもらい、『讃仏偈』をお勤めさせてもらっていました。すると、友人のおじいちゃんが、それを大変喜んでくださって、僕のお勤めの声を録音してくださるのです。その録音した僕のお勤めの声を、毎朝、お仏壇の前で流しているとおっしゃっていました。僕以上に悲しい思いをされてたと思うんですが、うれしそうな笑顔で、いつも僕を迎えてくださるおじいちゃんのお顔が、今でも忘れられないんです。」

読経の声というのは、内容が分からなくても、人を癒やしていく不思議な力があるように思います。以前、あるテレビ番組で、お釈迦様がお生まれになった地として伝えられるネパールのルンビニで、様々な国の僧侶が、それぞれに読経している姿が放映されていました。違う言語を持つそれぞれの国の僧侶が、同じ仏様を敬い、同じように読経している姿は、本当の平和な姿を教えてくださるものでした。

読経というのは、仏教においてとても大切な行の一つです。この世界には、様々な言葉が溢れています。言葉の背後には、それを紡ぎ出した心があります。怒りや憎しみの心が紡ぎ出していく言葉は、人を傷つける力を持ちます。逆に人を愛する心が紡ぎ出していく言葉は、人を救う力を持ちます。また、言葉は、人だけが持つものではありません。動物や虫、草花までもが、みんな言葉を持っています。その中で、仏様の心によって紡ぎ出されたのが、お経の言葉です。お経の言葉に触れることによって、私達は、仏様のお心に触れていくのです。

お経に関わる行いとして、もう一つ写経というものがあります。これは、お経を黙読し、一字一字間違いなく写していく行いです。これも大切な行いですが、仏教では、写経よりも読経が重視されます。

親鸞聖人が大変尊敬された七人の高僧のお一人、善導大師という方も、阿弥陀如来の真実の浄土に生まれていくための正しい五つの行いの一つに、「写経」ではなく「読誦」を上げておられます。「読」は、文字を見て声を出してお経を読むことです。「誦」は、文字を見ずに声をあげてお経を読むことです。「読誦」というのは、黙読するのではなく、声に出して読経することを言います。お経は、声に出して読むことが正しい行いとされるのです。

黙読というのは、ある意味、自分一人の世界で満足していく行いです。黙読している内容は、自分一人にしか届きません。しかし、声に出して読むというのは、そこに集う人々と一緒に仏様のお心を共有することができます。仏様のお心は、みんなで味わい、みんなで喜ぶところに大切な意味があるのです。しかも、声に出して読むというのは、黙読のように、単に頭で理解するだけではありません。その声を耳に聞き、肌で感じ、全身で仏様のお心に触れていくことができます。
仏様のお心というのは、文字でのみ表現されるものではありません。お寺の空間やお仏壇のお飾り、お香などの薫り、仏教徒の雰囲気、そして、読経の響き、あらゆる形を持って、仏様のお心は、私に届けられるのです。それらを感受していくのは、それぞれの心です。仏様のお心は、理屈では説明しきれません。例えば、初めて口にする果実の美味しさを、理屈で説明しきれないようなものです。この美味しさを伝えるには、食べてもらわなければ伝わりません。理解することよりも味わうことが、仏教でも求められるのです。

本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人は、本来、僧侶のみが行っていた読経を、一般の御門徒も行えるものに整えていかれました。『正信念仏偈』が、その代表です。僧侶も御門徒も関係なく、みんなで読経できる形に整えられたのです。それ以後、浄土真宗門徒は、朝夕のお勤めが日課となりました。日常のお勤めを通して、数知れない人々が、阿弥陀如来のお慈悲を味わってこられたのです。
「仏様のことが分からない」と嘆く必要はありません。分かることよりも味わうことが大切です。できることから丁寧に、仏様のお心を味わえる日々を大切に過ごさせていただきましょう。

2023年5月1日

「お浄土へ参る」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の葬儀の折、前日に喪主様から、次のようなお尋ねをいただきました。

 「明日の葬儀で、参詣者の皆様に御礼のご挨拶をさせていただくのですが、お浄土のことを言う場合、『お浄土へ旅立った』という言い方でよろしいですか?それとも、他の言い方の方がいいでしょうか?どのように言うのが、正しいのでしょうか?」

大きな悲しみの中、流れに任せてしまうのではなく、浄土真宗のみ教えに正しく順おうとされる丁寧なお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

このお尋ねに対しては、「『お浄土へ参った』の方がよろしいかと思います。」とお答えいたしました。「お浄土へ旅立つ」と「お浄土へ参る」、この二つの表現は、同じようで大きな違いがあります。「旅立つ」という言葉は、「今から目的地に向かい始める」という意味を表わしています。お浄土という目的地へ旅立つのは、死んでからでしょうか?いえ、そうではありません。お浄土へ旅立つのは今なのです。

そもそも、私達は、目的地を持って、この世界に生まれてきたわけではありません。目的地を持たない姿を「迷っている」といいます。わけが分からないまんま、手のつけようのないところで生まれてきた私達は、何のために生きるのでしょうか?この私の命は、何のためにあるのでしょうか?一生懸命に生きた人生は、死んで終わっていきます。死んで終わっていく人生に、どんな意味があるのでしょうか?このような誰にも答えようのない素朴な命の問いを、誰もが一度は心に持ったことがあるのではないでしょうか?人は死んでから迷うのではなく、生まれた時から迷っているのです。迷っている自分、どこか落ち着かない自分に問いを持つことが、人が人である所以でしょう。人は、本来、生まれながらにして、正しい人生の方向性、落ち着いて歩むことの出来る目的地を求めているのです。

この点について、人と仏様との違いを伝承するものに、お釈迦様の誕生の物語があります。伝承では、お釈迦様は、お生まれになってすぐ立ち上がり、七歩歩かれたとされます。そして、天と地を指さされ「天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之」とお話されたとされています。これは、とても事実とはいえない伝承ですが、伝承というのは、事実かどうかはあまり問題ではありません。大切なのは、どんな意味が込められているのかということです。これは、仏様として讃えられるお釈迦様が、普通の人とは違い、生きる意味と人生の目的をしっかりと確認し、実に落ち着いた人生の歩みをされていたことを教えているのです。

「天上天下唯我独尊」というのは、「世界中で私ほど尊い者はいない」という意味です。その理由が、次の句です。次の句は「三界皆苦我当安之」です。これは、「世界中の命ある者は、みんな苦しみを抱えている。その苦しみ、悲しみを安らかにするために私は生まれてきたのだ」という意味です。

お釈迦様に、私は何のために生まれてきたのでしょうか?と問えば、「お前は、人を初めとした様々な命を幸せにするために生まれてきたんだ」と教えてくださいます。この人生の目的は何でしょうか?と問えば、「あらゆる命が抱える苦しみや悲しみを癒やし、安らかにしていくことが、生きる目的だ」と教えてくださいます。人として最も尊く正しい生き方とは、仏様のように、あらゆる命の悲しみに共感し、あらゆる命の安らぎを願いながら生きることであると教えるのが、仏教なのです。

実は、お浄土に生まれていくことを人生の目的とさせていただくことも、基本的には同じことなのです。お浄土というのは、「浄らかな命の領域」という意味です。浄らかというのは、微塵の我も雑じることなく、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命を悲しんでいくことのできる状態のことです。そのような浄らかな状態であることを目指して生きることが、お浄土を人生の目的地として生きるという姿なのです。

お浄土に生まれるというのは、天国という言葉で表現されるような、悲しみや苦しみがなく、自分の都合が満たされていくだけの世界を目指すことではありません。むしろ、浄土とは、人の悲しみや苦しみを引き受けていく世界であり、それは、あらゆる人、あらゆる命を愛おしく愛することのできる世界なのです。

生まれながらにして、深い煩悩と迷いを抱える者に、正しい人生の方向性を教えようとするのが浄土の教えであり、阿弥陀如来の救いの世界なのです。
お浄土へ生まれていくような尊く正しい人生を、今、歩み始めましょう。

2023年4月1日

「仏様のみ教えを聞く」

【住職の日記】

先日、『基礎からはじめる真宗講座』で『仏説阿弥陀経』のお話をさせていただきました。『仏説阿弥陀経』では、阿弥陀如来の極楽浄土について、様々な風景が詳しく説かれていきます。その中の一つに、池の中に咲く蓮の花についての描写があります。それは、次のように説かれていきます。

「池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。」

様々な色の蓮の花が、それぞれの色の光を放っているという風景が描かれています。これは、単に美しい風景が描かれているのではありません。仏様のお心がみそなわす本物の命の風景が描かれているのです。

この点について、先日の真宗講座では、保育園で出会ったある男の子のつぶやきを紹介させていただきました。以前、保育園に虫が大好きな男の子がいました。虫図鑑を見るのが大好きで、虫の事なら何でも知っている虫博士です。夏の季節、保育園にあるクヌギの木にカブトムシがとまっていました。子ども達は、大喜びです。虫かごに入れて、毎日、大切にお世話をし、カブトムシの話題で持ちきりでした。虫博士の男の子も、もちろん大喜びでしたが、ある時、ぽつりとこんなことをつぶやいたのです。「ゴキブリも同じ色してるのに・・・」

この一言に、大人は、はっとさせられたことでした。確かに、ゴキブリとカブトムシは、同じ色をしています。しかし、どれだけの人が、この二匹の虫を、同じ色の虫として見ているでしょうか?虫なら、どんな虫も大好きな男の子は、ふと疑問に思ったのでしょう。カブトムシは、こんなに大切にされるのに、なぜ、同じ色をしているゴキブリは殺されなければならないのかと。

これは、人間境涯の前に広がる当たり前の風景に疑問を持ったということです。子どもというのは、時折、大人がはっとさせられることを口にすることがあります。それだけ、心が柔らかく感受性が豊かなのでしょう。アンテナが錆び付いておらず、ピカピカなのです。それがなぜか大人になると、心が固く感受性が乏しくなっていきます。アンテナが錆び付き、正しい風景を感受出来なくなっていきます。それは、人間境涯が、自己都合の奪い合いの世界だからでしょう。人間にとって都合の良いカブトムシが殺されることは、悪と見なされていきます。逆に、同じ虫でも、人間にとって都合の悪いゴキブリが殺されることは、善と見なされるのです。しかし、それは、人間の都合が描き出していく歪んだ風景であり、本当の命の風景ではないのです。本当の命の風景は、ゴキブリも輝いているのです。ゴキブリは殺されてよい命ではなく、大切にされなければならない命なのです。ゴキブリをゴミを処分するように無慈悲にたたき殺し、それを当然のように何も感じない姿というのは、鬼の姿であり、けっして正しい姿とは言えないでしょう。

『仏説阿弥陀経』には、仏様であるお釈迦様が感受された美しい命の世界観が展開されていきます。そのお経の言葉をいただくことは、仏様の清らかな世界に触れることと同時に、私の世界の歪みが露わになることでもあるのです。

人が為す世界は、歪んでいます。その歪みが、苦しみや悲しみを生み出していくのです。人が為すと書いて偽という文字になりますが、人が為すものは、どこまでも偽物だということです。人には、それぞれに自己都合があります。個体をもっている限り、自己都合を捨てることはできません。自己都合のフィルターを通してしか、私達は、世界を見ることができません。それ故に、私達が感受している世界には、必ず都合の良いものと都合の悪いものが存在します。言い換えれば、世界には、大切なものとそうでないものが存在するということです。大切なものだけを大切にし、邪魔者を排除していく世界は歪んでいます。

その歪みを歪みとして認識していけるのは、歪んでいない正常なものに出会った者だけです。歪みのない正常なものに出会うことがない者は、自分が歪んでいることに気づくことはありません。歪んだまんま、それが正しいと思い込み、歪みを増長して命終えていけば、歪んだ世界に落ち込んでいくのは明白な道理でしょう。

浄土として説き明かされていく仏様がみそなわす歪みのない世界は、あらゆるものが愛しいものとして存在する風景が広がっています。あらゆるものが美しいのです。

仏様のみ教えを聞くというのは、正しい世界に触れ、感動し、感動の中に自らの浅ましい姿に気づき、軌道修正しながら浄土に向かった人生を歩ませていただくということです。たまたま恵まれた人生です。正しいことに出遇わせていただきましょう。

2023年2月28日

「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」

【住職の日記】

今年も多くの方々の御報謝をいただく中に、無事、御正忌報恩講をお勤めすることが出来ました。コロナ禍の影響もあり、全体的には例年よりも参詣者が少なく、少し寂しく感じたご縁となりましたが、そんな大変な状況の中、お聴聞にお参りをされ、合掌されているお一人お一人のお姿には、頭が下がる思いがいたしました。

今年は、親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年の記念すべき年です。ご本山本願寺では、三月二十九日~五月二十一日まで慶讃法要が厳修されます。しかし、感染症対策のため、参詣者の人数制限が設けられており、たくさんの皆様でお参りできないのが残念です。

立教開宗(りっきょうかいしゅう)というのは、浄土真宗というみ教えが、仏教の中に確立されたことを意味します。仏教の中に新しい宗派が確立されるというのは、けっして容易なことではありません。実際に、親鸞聖人の師匠であった法然聖人は、浄土三部経を拠り所に浄土宗という宗派を確立していこうとされますが、日本仏教の中心であった比叡山や奈良の南都六宗から強烈な批判と拒絶を受けていきます。それが、やがて承元の法難と呼ばれる未曾有の大事件に繋がっていくのです。

承元の法難という事件は、時の権力者であった後鳥羽上皇の命により、法然聖人のお弟子四人が死罪となり、法然聖人を含む七人が流罪となったものです。流罪とは、縁もゆかりもない土地に流し者にされる刑罰です。この時、親鸞聖人も流罪となり、現在の新潟県、越後に流されていかれます。そして、この時、国家の命により国民に対して、念仏を口にすることが禁止されます。

法然聖人の流罪が執行される前日、お別れに集まったお弟子達に対して、法然聖人は、「朝廷は、私を流罪にしたと思っているだろうが、私は、伝道の旅に出るのだと思っている」と語り、続いて「念仏を弾圧した人々は、仏法を攻撃し念仏者を苦しめた報いを必ず受けるでしょうから、よくよく見届けなさい」と語られます。それを聞いたお弟子の一人が、「少しほとぼりが冷めるまで、お念仏のみ教えをお説きにならないように」と助言されたことに対して、「たとえ首をはねられようと、このこと説かであるべきか」と仰せになったと伝えられています。

法然聖人は、どんなに弾圧されようとも、けっしてお念仏を説くことを止めようとはされませんでした。それは、正しい道理を見通す智慧を阿弥陀如来からいただき、大きな安心の中に落ち着いておられたからでした。流し者になるなら流されていく、死罪になるなら死んでいく、どのような状況の中でも、正しい道を正しく歩ませていただくことが大切であり、その正しい道こそ、お念仏を申す人生であることを、自らの生き様の上に示していかれたのです。

その法然聖人が御往生されてから十二年後、親鸞聖人が、『顕浄土真実教行証文類』という六巻からなる書物を完成されます。一般には『教行信証』と呼ばれる浄土真宗の根本聖典です。この『教行信証』の完成の年が、浄土真宗の立教開宗の年とされています。しかし、この『教行信証』という書物は、立教開宗を意図して著述されたものではありませんでした。法然聖人が命がけで示されたお念仏の道が、お釈迦様のお心を受け継ぐ正しい仏教の道であることを、お弟子の立場から、ひたむきに追求し証明していこうとされたものだったのです。しかし、ご生涯をかけて完成していかれる『教行信証』の中には、法然聖人の上では必ずしも明らかでなかった、お念仏の真実性を示していく数々の真新しい道理が明らかにされていたのです。それは、師匠の法然聖人から、その意志を受け継ぎ、必死にお念仏を守ろうとした結果でした。

親鸞聖人というお方は、九〇年の生涯にわたり、法然聖人の弟子の立場を貫かれ、立教開宗の意図も自らが宗祖となる意志も、まったくなかった方なのです。青年期に味わった深い絶望の中で、法然聖人からお念仏申す仏道を教えられ、それを純粋にいただき、絶望した人生を有り難く尊いものとして喜んでいかれたのでした。

それから八〇〇年の時を経て、浄土真宗の門徒として、親鸞聖人のご縁を不思議にもいただいている私達は、とても幸せ者です。なぜなら、親鸞聖人が有り難く尊いものとして喜んでいかれたのと同じ人生を私達はいただくからです。
浄土真宗のお寺は、親鸞聖人が法然聖人を通じてお念仏に出遇われたように、お念仏を喜ぶ様々な人に出遇い、その人達を通して、お念仏に出遇っていく唯一の場所です。記念すべき年が始まりました。お寺の法座にお参りする一歩を踏み出してみましょう。

2023年2月1日

「南無阿弥陀仏と称える大切な一歩」

【住職の日記】

明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、悲喜交々の日々を有り難く頂戴して参りましょう。

先日、ある御門徒の方から、昔の正法寺門徒のお姿について、大変有り難いお話を聞かせていただきました。

 「隣の〇〇のおじいちゃんは、とてもよくお寺にお参りされていました。正法寺だけでなく、原条の教証寺にも法座があれば、よくお参りされていました。家の中にいても、お参りに出かけるおじいちゃんの下駄の音とお念仏の声が、よく聞こえてくるのです。懐かしいですね。若かった私によく『仏説阿弥陀経』のお話を聞かせようとしてくれていました。若い者に仏教を聞いてほしかったのでしょうね。その時は、若かったこともあり、あまり興味が持てませんでしたが、今にして思えば、もっとよく聞かせてもらっておけばよかったなと思います。」

最近は、お寺の本堂でも、だんだんとお念仏の声が聞こえなくなった気がしています。数十年前までの正法寺門徒の中には、道を歩きながら、家の中にまで聞こえるほどの声で、お念仏を称えている方がおられたのです。

仏教というのは、知識を増やすことが目的ではありません。実践してこそ、はじめて意味があるものです。仏教の中心は、行です。行とは、行い、生き方のことです。お釈迦様が御在世当時の古代インドでは、厳しいカースト制度の縛りの中で人々は生きていました。カースト制度の下では、生まれた家柄によって人の価値が決まっていきます。しかし、人は生まれによってではなく、行いによって、賤しくもなり尊くもなると、お釈迦様は教えられたのです。どんなことを口にし、どんなことを心で思い、どんな行動を起こしていくのか、それによって人の価値は決まっていくというのです。そして、お釈迦様は、最も尊い価値を持つ仏に成るための正しい行いを修めていくことを教えていかれました。それを修行といいます。

しかしながら、正しい行いを教えの通りに修めていくことは、並大抵のことではありません。例えば、一番有名な不殺生という行いを保ち続けることすら、私には非常に難しいことなのです。殺めてはいけない対象は、人だけではありません。蚊のような虫や雑草のような植物に至るまで、あらゆる命を殺めてはいけません。それは、実際に手を下すことだけでなく、心に思うことも殺生です。夏に蚊が飛んできて、「いなくなればいいのに」と心に思うことも殺生です。命に対する思いやりが欠落していれば、仏の境地になど近づけるはずがありません。虫どころか、心の中では何人もの人を殺めてきたのではないでしょうか。

体も心も口も、私の意志の力で完全にコントロールできるものではありません。正しい行いをしようとして、図らずも人を傷つけてしまうこともあります。穏やかな心が、ふとしたきっかけで怒りの炎に包まれていくこともあります。気をつけていても、言葉で失敗することはいくらでもあります。そもそも、それぞれの都合が渦巻いている人間社会の中で、一人だけ正しい行いをし続けることは、ほぼ不可能でしょう。

日々の生活に追われ、思いのままにならない厳しい人生を生きる者にとって、正しい生き方とはどんな生き方なのでしょうか?お釈迦様は、世俗の中で懸命に生きる私に、お念仏を申しなさいとお勧めくださいます。様々な縁に振り回され、誤解と後悔の中で生きていかざるを得ない私に、お念仏を申すという生き方が、私にとって、最も安心できる正しい生き方であることを教えてくださっているのです。

教えを聞くというのは、教えられた通りに実践するということです。お念仏を申しなさいと教えられたら、お念仏を申してみることが大切です。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と称えてみてください。そこから仏道が始まっていくのです。仏道というのは、文字通り仏の道、仏に成る道です。私は、何を目的として生きるのでしょうか?目的になり得るものとは、避けることの出来ない老いや死によっても、壊されないものでなければなりません。財産も地位や名誉も家族でさえも、死によって奪われていくものです。「死んだら終わり」という生き方からは、生きることの本当の意味を見出すことはできないでしょう。

お念仏を申すという行いは、私に恵まれた仏の道です。称えるところに、必ず育てられる人生が恵まれていきます。新しい年が明けました。いつ終わっていくか分からない日々の連続です。考え疑うよりも、まず実践することです。南無阿弥陀仏と称える大切な一歩を踏み出してみましょう。

2023年1月1日

「真実と方便」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の葬儀の後、御往生された奥様の看病について、大変ありがたいお話を聞かせていただきました。

御往生された奥様は、十年ほど前から認知症を患うようになられたそうです。それまでは、家事等の身の回りのことは、すべて奥様がしてくださっていたそうですが、だんだんとそれも難しくなっていったといいます。それまで当たり前に出来ていたことが出来なくなっていくのは、ご本人にとっても受け入れがたい厳しい現実です。ご主人は、奥様の心が傷つかないよう、様々な配慮をしながら看病を続けられたそうです。自分の用事で外出しなければならない時も、奥様を家に一人で居させるわけにはいきません。そんな時も「僕は一人で出かけるのが不安なんだ。僕のために一緒についてきてくれないか。」と声をかけ、一緒に外出したといいます。洗濯物をたたむことも、食器を洗うことも、だんだん出来なくなっていく奥様を傷つけないよう、一生懸命しようとされる姿をそっと見守り、奥様のいないところで、ご主人がやり直す日常だったそうです。その献身的なお姿に、ただただ頭が下がる思いで聞かせていただいたことでした。

奥様は、最期まで、ご自分がご主人を支え守っているということが、生きる喜びだったそうです。でも、本当に守られていたのは、奥様ご自身だったのです。この愛情深いご夫婦のお姿を聞かせていただく中に、仏様のお心を重ねて味わわせていただいたことでした。

親鸞聖人は、仏様のみ教えの中には、真実と方便があることを教えておられます。真実とは、裏表のない本当のことという意味です。方便というのは、「嘘も方便」という言葉がありますが、嘘をつくことではありません。仏様が、私を真実へと導く手立てのことを方便といいます。人間は、自らの価値観や視野に縛られ、進むべき方向性を見失う存在です。それを迷いの凡夫というのです。不幸になる道を正しいと思い込み、突き進んでいくのです。仏様の救いというのは、進むべき方向性を恵んでくださることなのです。けっして私の都合をかなえることが救いではありません。人生という道は、どんな道を行こうが、私の都合ばかりがかなう平坦な道などありません。必ず、どんな道にも険しさがあるのです。しかし、道を歩むのに方向性を持つか持たないかは大きな違いです。険しさの中にも、様々な手立てをもって、私を守り導いてくださる働きが、仏様です。

人は、真実をそのまま受け止めることができるほど強くありません。もし、先ほどのご主人が、奥様に対して「お前は認知症だから、一人で家に居ることはできないんだ。僕が守ってやるから、一緒に外出しよう」と、そのまま真実を伝えていたなら、奥様はご主人に付いて外出していたでしょうか。真実をそのまま伝えることは、けっして優しさではないのです。親鸞聖人は、仏様のお言葉には優しさが満ちあふれている。だからこそ、仏様のお言葉の中には、真実でない方便もたくさん含まれているとおっしゃったのです。

仏教の中には、『法華経』を拠り所とした天台宗の自力修行や日蓮宗のお題目、また、『大日経』を拠り所とした真言密教や『般若経』を拠り所とした禅宗の座禅など、様々なみ教えが説かれています。これらは、すべてお釈迦様がお説きになられた素晴らしいみ教えです。どの道を選び進んでいくのかは、それぞれの選択です。選択とは、選び取り、選び捨てるということです。選び捨てられたものは、不要なものであり、普通は意味のないものと見なしがちです。しかし、人生において意味のないものなどありません。迷ったことにも意味があります。道草にも大切な意味があるのです。

親鸞聖人は、九才から二十九才までの比叡山での命がけの修行の日々を選び捨て、法然聖人のお導きで専修念仏一行の道を選び取っていかれました。しかし、その二十年の日々を、けっして無駄だったとはおっしゃらないのです。あの日々は、如来様の温かい方便の中にあったと味わっていかれます。如来様は、いつでも真実が分からない私を、様々な手立てをもって、守り導いてくださっているのです。

私が生きているつもりが、実のところは、如来様に生かされているのでしょう。人生における悲喜交々は、すべて如来様による温かいお育てです。どんな出来事の中にも、お慈悲を味わえる日々を大切にさせていただきましょう。

 

2022年11月29日