「如来の大悲に抱かれる」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の方から、次のようなご相談がありました。

「最近ずっと心の中が、モヤモヤしてるんです。近くで生活に困っている人がいて、何とか助けてあげたいという思いでいたんですが、私が、何かすることで、逆に、その人を追い詰めてしまうこともあるのかなと思ったりして、どうしていいか分からなくなるのです。でも、何もしないことが、本当に良いこととは思えませんし、、、、」

誰もが、人生において、このような問題に直面したことは、一度や二度ではないでしょう。社会生活を営む上においては、善悪の判断を避けることはできません。しかしながら、善と判断し行動したことが、必ずしも結果として善となるとは限りません。また、逆もしかりです。

世界で最も読まれている仏教書の一つに『歎異抄(たんにしょう)』というものがあります。親鸞聖人の直弟子であった唯円という方が書かれたものと言われています。この書物は、若かりし頃の唯円が、直接、親鸞聖人からお聞きになったお言葉が、記されています。いずれのお言葉も、唯円という個人に対して述べられたもので、非常に情感のこもった親鸞聖人の生の声が響いています。

実は、『歎異抄』に記されている親鸞聖人のお言葉は、そのほとんどが、唯円の質問に答えられたものだと言われています。若かりし頃の唯円の悩みに寄り添い、大切に言葉を紡いでいかれる、そんな親鸞聖人の温かい姿に触れることができます。『歎異抄』を読まれた方なら、誰もが気づくことですが、ここで語られる親鸞聖人のお言葉の多くが、善悪に関することなのです。これは、質問者である唯円の悩みの多くが、善悪に関することだったからでしょう。

そんな『歎異抄』の中でも、善悪の本質について語られるものが、第十三条のお言葉です。それは、親鸞聖人と唯円との実際にあった対話が記されています。まず、親鸞聖人が「唯円は、私の言うことを信ずるか」と尋ねられます。それに対して唯円が、「親鸞聖人のおっしゃる通りにいたします」と答えます。すると、親鸞聖人が、「人を千人殺してくれないか、そうすれば、あなたが極楽浄土に往生することは間違いないであろう」と、とんでもないことをおっしゃいます。もちろん、唯円は、「千人どころか一人の人を殺すこともできません」とお断りになられます。すると、親鸞聖人が、「では、なぜ親鸞の言う通りにするなどと言ったのか」と唯円に投げかけます。唯円は、何も言えなくなってしまいます。言葉を失った唯円に対して、親鸞聖人は、次のようにお諭しになるのです。

「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」

「我が心の善くて殺さぬにはあらず」という一言は、私達に、人の善悪の本質を教えてくれています。人の心は、縁によって様々に姿を変えていきます。穏やかだった心が、ほんの些細なことで、怒りの炎に包まれていくのです。心は、思いのままにできるものではありません。私の力の及ばないところで、縁に振り回され、善が悪に翻り、悪が善に翻り、どうしようもないところに追い詰められていくのでしょう。

親鸞聖人のお言葉を思い返し、唯円は、次のように、そのお心を推し量られます。

「われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。」

親鸞聖人のこのお諭しは、自らの心の善悪ばかりに目がつき、阿弥陀如来に願われている不思議に気づかないことを教えられたというのです。本当の善悪が何であるのか、縁に振り回される凡夫には見通すことはできません。にもかかわらず、善に誇り、悪を蔑み、人の価値を自分勝手な善悪の上に決めつけていこうとするのです。

善悪が常に翻りながら、苦悩していく私の中には、拠り所となるものは何もありません。善人である時の私も、悪人である時の私も、変わることなく慈しみ、しっかりと抱いてくださる如来の大悲心こそ本当の拠り所なのです。

そして、如来の大悲に抱かれるというのは、私もまた、人の悲しみに寄り添える人間に育てられていくということでしょう。善悪に振り回されながらも、人の悲しみに寄り添える身をいただいたことを、大切にさせていただきましょう。

 

 

2022年11月3日

「お経を拝読する意味」

【住職の日記】

先日、ある御門徒宅の遷仏法要にお参りさせていただきました。遷仏(せんぶつ)法要というのは、ご自宅のお仏壇を別の場所に遷す(うつす)際の法要です。ご自宅の建て替えやお引っ越しの際にお勤めします。お勤めの後に、こんなご質問をいただきました。

 「今お勤めされたお経は、何というお経でしょうか?どんな意味があり、どんな気持ちでお勤めすればいいのでしょうか?仏様に対して、申し訳ないという気持ちでしょうか・・・」

手短に次のようなお答えをいたしました。

 「今のお勤めは、『正信念仏偈』という聖典の一番最初にあるお勤めです。親鸞聖人がお作りになったもので、浄土真宗では、日常的に最も大切にされているお勤めなんです。お勤めするときの心持ちは、お礼のお気持ちでしょうか。浄土真宗では、仏様に対して祈りを捧げたり願いを掛けたりはしないんですよ。『正信念仏偈』の内容も、親鸞聖人の阿弥陀如来のお心に出遇わせていただいたお喜びと感謝の想いが溢れたものになっているんです。」

もう少し言葉を足して丁寧に説明すればよかったという反省もありますが、改めて、お経を拝読するという行為への素朴な疑問を聞かせていただいた気がしています。

最近では、宗教的儀礼に対して意味を求めない風潮が、広がりつつあるように感じます。先日も、ある葬儀社の社員の方が、「最近は、儀礼をしない方が増えているんですよ」と言われていました。儀礼をしないというのは、お葬式を勤めないということです。お葬式を勤めないのですから、その後に続くはずのご法事も、当然のように勤めないのです。お葬式やご法事だけではありません。結婚式も、最近は、宗教的儀礼をしない方が増えています。一昔前は、仏教徒がキリスト教の教会で結婚式を挙げることが批判されたりしていましたが、最近は、キリスト教式の結婚式も激減しています。宗教的儀礼ではなく、人前式という宗教を除外した形が圧倒的になっているのです。

現代は、宗教そのものの意味が見失われている時代だと思います。宗教というと、その定義は、広義にわたります。日本の神道やユダヤ教のような特定の民族のみに広がる民俗宗教もあれば、世間で問題視されるカルトと呼ばれるものもあります。細かく見ていけば、宗教と呼ばれるものは、いくらでもあります。しかし、仏教、キリスト教、イスラム教という世界宗教が、本来の宗教の意味を持ったものと言えるでしょう。世界宗教に共通しているのは、未開の精神的境地に至った教祖が存在し、聖典があり、特定の民族を超えた人々の中に広がっているということです。

人間は、民族に関係なく、答えようのない問いを持っています。それは、私そのものに対する問いです。私とは、いったい何者なのか?生きるとは、どんな意味があるのか?死ぬとは、どんな意味があるのか?命とは、どんな意味を持つものなのか?この答えようのない根本的な問いと不安に向き合い、答えを与えていくのが、本来の宗教の役割でしょう。

宗教の意味が見失われているというのは、人としての存在意味を問うことを見失っているということです。生きることの意味を問わなくなり、死ぬことの意味を問わなくなったということです。自らの凝り固まった価値観に縛られ、問いを持たず、欲望のままに驕り、不安に振り回される姿は、仏教では、人とは言いません。畜生や修羅と呼んでいくのです。大切な人が死を迎えたとき、そこに問いを持たず、他者の命の意味、自己の命の意味を求めようとせず、ゴミを捨てるように亡骸を処分しようとするのは、人とは言えないでしょう。また、人生における不思議な出逢いに意味を問うことなく、自分勝手な喜びの中に、夫婦生活をスタートさせることは、本来の人の姿ではありません。鳥のつがいとの違いは、どこにあるのでしょうか?

お経を拝読するという仏教儀礼も、自己に対する問いを持つ人間が、仏様のお言葉を求め、大切な意味を聞いていく人らしい姿なのです。本来の宗教儀礼は、呪いや占いの類いとは一線を画するものです。お経を拝読するというのは、仏様のお言葉を聞くところに大切な意味があります。私の願いを掛けるのではなく、仏様の願いを私が聞かせていただく中に、自己や他者の尊さに出遇っていく世界があるのでしょう。それには、お経をただ拝読するだけではダメなのです。普段からお寺の御法座で仏様のお心をお聴聞する中に、本当の読経の意味が深まっていくのでしょう。自己を問い、仏様のお言葉を求めていく人間らしい日常を意識したいものです。

2022年10月2日

「本当の幸せ」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の方から、正法寺が母体となって運営する大内光輪保育園に、お孫さんを入園させたいというご相談をいただきました。山口市は、十年ほど前から保育園に入園を希望しても入園できない待機児童が発生し続けています。そんな中、どこかに入園したいという切実な訴えをされる方も、たくさんおられるのです。

しかし、この度、ご相談いただいた御門徒の方は、お孫さんを入園させたい理由を、「息子達が困っているから」ではなく「仏様に手を合わせる保育園で育ってほしいから」とおっしゃったのです。またそれは、息子さん夫婦も同じ考えであることも教えてくださいました。親の仕事のために保育園入園を切実に考えている人が多い中、お孫さんが仏様に手を合わせることを切実に願ってくださっている姿に頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

手を合わせる作法は、元々はインドの作法です。今でもインド人の方々は、人に挨拶をされるときには、手を合わせて頭を下げられます。これは、敬いの心を表す作法だと言われています。敬うというのは、尊ぶということです。ただ大切なものというだけでなく、頭が下がる尊いものに出会っている感動を表しているのです。

仏教では、真と偽をはっきりと区別します。真とは、本当のことです。ありのままということです。偽とは、人が為すと書いて偽物を意味します。人が為すことは、偽物であり真実ではありません。人は、その人特有の色眼鏡をかけています。自己の都合を貪る我執が、物事の姿をゆがめてしまうのです。偽物の中で生きる者は、ありのままの真実に出会うと感動します。そして、偽物は、本物の前に力を失います。ただただ感動し、喜びに包まれ頭が下がっていくのです。私達が心動かされるのは、ありのままの自然の姿やありのままの清らかな命の姿、そして、ありのままの清らかな心など、誰かの我執が微塵も混じっていない清らかな真実に出会った時でしょう。人生における幸福は、このような頭が下がる真実に出会っていくことなのです。
人生は、思いのままにはならないものです。どんな人間も、自己の都合が叶い続ける人生などあり得ません。浄土真宗の根本経典である『仏説無量寿経』には、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。・・・尊貴・豪富もまたこの患ひあり。・・・貧窮・下劣のものは、困乏してつねに無けたり。田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。」とあります。

土地や家などの財産を持つ経済的に豊かな者は、それらの所有する財産について様々な悩みを生じます。それらの財産を持たない経済的に貧しい者もまた、財産を持たない状況について様々に悩みを生じます。持つ者も持たない者も、必ず悩みを抱えているというのです。求めるものが満たされれば幸せになるというのは、我執を持つ人間の幻想であることを、お経の言葉は教えてくださっています。

私達の宗祖、親鸞聖人は、世間的にはけっして満たされたと言える人生を歩んだ方ではありませんでした。数え年九歳で親元を離れ、比叡山に修行に出されます。その比叡山で二十年間の修行の末、大きな挫折を味わい、やっと出会えた恩師法然聖人とも、わずか五年で生き別れになります。さらに、三十四歳頃には、無実の罪で遠流に処され、僧籍を剥奪され罪人となります。八十歳を過ぎた晩年は、信頼していた長男に裏切られ、最期は、ご自分の家もお寺もなく、弟さんのお寺で臨終を迎えます。親鸞聖人が、現在のように浄土真宗の宗祖と仰がれ、誰もが名前を知るようになるのは、ご往生されて約二〇〇年後、子孫の蓮如上人のご活躍を待たねばなりませんでした。けっして功成り名を遂げて生涯を閉じていかれたのではないのです。誰からも知られることなく、何も持たずに、ひっそりとその苦難の生涯を閉じられたのです。

しかし、その親鸞聖人の言葉が、歴史の中で、数知れない人々の心を呼び覚ましていきます。それは、親鸞聖人が、欲を満たすことでは得られない、本当の幸せを持っておられたからでしょう。幸せな人の言葉は、人を幸せにします。親鸞聖人の笑顔は、時と空間を超えて私達にも伝染してくださるのです。

愛しい者の幸せを願う姿は、人間が持つ最も尊いものの一つでしょう。それだけに、本当の幸せを、きちんと聞かせていただく日々を大切にしましょう。

2022年8月1日

「供養」

【住職の日記】

先日、ある御門徒のご法事の際に、ご当主から「供養」ということについて、次のような思いを聞かせていただきました。

 「御住職、私は、親鸞聖人が、亡き父母の供養のために念仏を称えたことはないとおっしゃったことを、以前、何かの本で読ませていただいたことがあります。私の力で亡き方を供養しようとする姿勢が、間違っていることは分かっているのです。でも、ご法事のときには、どうしても亡き方の供養のためと思ってしまいます。特に、自分にとって大切な人ほど、あの人のためにお経をお勤めしようと強く思ってしまいます。これでは、親鸞聖人の思いとかけ離れていくのは分かるんですが、・・・どうしようもないですね。」

「供養」という言葉は、本来、「尊敬の思いをもって捧げる」という意味ですが、これが民衆の死者儀礼と強く結びついていき、「追善供養」という意味を持っていきます。「追善供養」というのは、亡くなっていった方に代わって、私が善根功徳を積み、亡き方にその善根功徳を振り向けて、亡き方が少しでも善い世界に生まれていくよう願う行いです。人間、善いことばかりで生きていけるわけではありません。様々な命を殺め、人を傷つけて生きざるをえないのが私達です。誰もが、人生において少なからず後ろめたい思いを持っているのではないでしょうか。私は絶対に地獄には落ちないと胸を張って言い切れる人が、どれほどいるでしょうか。また、大切な人と死別した場合、誰もが、生前にああもしてやりたかった、こうもしてやりたかったと、自分の行き届かなかったことを悔やむ思いが胸をしめつけていきます。そんな悲嘆と悔やむ思いに応えていく教説が追善供養なのです。

手の届かない世界へ行ってしまった故人に、私の思いが届くことを教える追善供養の教えは、仏教の中心であるかのように、長い歴史の中で、世界中で広く行われてきました。そんな中、親鸞聖人は、弟子の唯円に次のように語っていかれます。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」
孝養というのは、追善供養のことです。亡き父母の供養のために念仏を称えたことは一度としてないと言い切られています。その理由が続いて記されていきます。
「そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。」

自分に関係のある者だけの幸せを願うことは、本来の仏教の教えではないというのです。あらゆる悲しむ命を救う仏に成っていくことを目指すのが、本来の仏教であり、その実現の道こそ、阿弥陀如来のお念仏の道であることを教えていかれます。しかし、最後には次のように言われるのです。

「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと」

お念仏をいただき、お浄土に生まれ仏様にさせていただいたなら、どんな苦しみの中にあっても、まず有縁の人々を救うことができるのですと言われるのです。あらゆる命を救うことを教えながら、最後には、私の大切な方をまず一番に救うことができるとおっしゃるのです。ここに親鸞聖人の人間の情を大切にされる一面をうかがい知ることができます。

自分の大切な人に対して、亡くなってもなお、幸せになって欲しいと願うのは、人間の情です。確かに、それは、自分の大切なものだけを思う煩悩のなせる姿でしょう。しかし、その煩悩の中にこそ、仏様に出遇い、真実に気づいていく場があるのです。悲嘆や悔やむ思いに胸をしめつけられる私だからこそ、阿弥陀如来は、私に仏に成ってほしいと願われるのです。

親鸞聖人は、亡くなっていった方の幸せを願う思いを否定されるのではありません。ただ、罪深い私が、自分の為す行いによって故人を幸せにできると思う、その思い上がった姿を否定されるのです。今の私は、人を救えるような仏様ではありません。どこまでも仏様に教えられ導かれなければならない危うい凡夫なのです。しかし、その凡夫としての命尽きたならば、今度は、胸を張って人を幸せにすることができると言える仏様にさせていただくのです。お経の言葉は、その真実を私に知らせてくださる仏様からのメッセージです。

阿弥陀如来の願いを聞き受け、お念仏を申す人生の先に、供養を超えた本当の救いの世界が開かれていくのでしょう。悲しみや悔やむ心を大切に、清らかなお念仏のお心を丁寧に聞かせていただきましょう。

 

2022年7月1日

「本堂という空間」

【住職の日記】

先日、宗祖親鸞聖人の降誕会の御法要に合わせて、大内光輪保育園の年長組の子ども達が、三年ぶりに正法寺にお参りしてくれました。大内光輪保育園は、山口市大内にある正法寺が運営に関わる保育園です。正法寺から離れた環境にありますが、浄土真宗のみ教えを保育の柱とし、阿弥陀如来様のお心の中で育まれる宗教的情操教育を大切にしています。年長組になると、親鸞聖人の降誕会と御正忌報恩講の二回のご縁には、毎年、正法寺にお参りしてもらっていましたが、コロナ禍が始まってからは、集団でバスに乗ることも自粛せざるをえない状況が続いていました。いまだコロナ禍は収束していませんが、様々な感染症対策が充実してきたこともあり、この度、三年ぶりに正法寺へ参詣することができたのです。

大内光輪保育園の子ども達にとって、お寺という存在は、日常生活の中にはないものです。保育園のホールには、阿弥陀如来様が御安置されてあり、毎朝、子ども達もお勤めをし、礼拝の時間を過ごしています。しかし、お寺となると、子ども達にとっては、想像のできないまったく未知の存在になります。コロナ禍の前までは、昨年の年長組の子ども達から、お寺の様子を聞くこともありましたが、今年の子ども達には、その経験もありません。そんなお寺初体験の子ども達の反応が、とても素直でかわいらしく、改めて、私達にお寺の有り難さを教えてくれるものだったのです。

本堂に入るなり聞こえてきた子ども達の声は、「わ~、いい匂いがする~」「ピカピカしてる~」というものでした。住職の話が終わり、少し落ち着いてくると、色んな質問が、あちらこちらから飛びだしてきます。「この大きなお家、理事長先生が、一人でお金出したん?」というものや「なんで、ここに龍がおるん?」「なんでピカピカしてるん?」「あれは誰?」「これは何?」と、いつまでも様々な質問が止まることがありませんでした。目をキラキラさせて、色んなことを尋ねてくれる子ども達の姿に、とても嬉しい気持ちにさせてもらったことでした。

本堂というのは、子ども達が素直に感じたように特別な空間です。それは、日常生活では味わえない仏教徒の感動がいっぱいに詰まっているからなのです。お釈迦様は、お説法されるのに、特別な空間を準備されることはありませんでした。木の下や岩陰など、暑いインドにおいて、どこにでもある過ごしやすい普通の場所で行われたのです。しかし、お釈迦様がお説法されれば、普通の場所が、普通の場所のまんま特別な場所になるのです。それは、悟りを開かれた仏様の立ち振る舞い、紡がれる言葉、お釈迦様から発せられる一つ一つのものが、聞く者に感動をもたらし、敬いをもたらしていったからです。多くの仏教徒達が経験した特別な空間は、お釈迦様が入滅された後も、仏様を敬い礼拝する場所として再現されていったのです。

本堂という空間は、五感全てで仏様というものに出遇える場所です。そこで香る匂い、耳に聞こえてくる音、目に入る様々な風景、肌で感じる空気、あらゆるものが、仏様のお心であり働きです。難しい理屈を理解できなくても、仏様自身が、私に働きかけてくださるのです。

本堂初体験の子ども達は、この特別な空間があること自体に驚いている様子でした。純粋な子どもの驚きの中に、本堂が用意されていることの尊さを感じます。本堂を護ってこられた数知れない御門徒の方々は、ご自分のためだけに本堂を護られたわけではないでしょう。子や孫をはじめ、未来に生まれてくる数知れない人々が、仏様に出遇っていくことを、心から願っておられたのではないでしょうか。他でもない、本堂は、この私のために用意されたのです。

世間では、自らの都合が満たされていく人生のことを幸せな人生と言います。何の苦労もなく思いのままになる人生を、人はうらやみます。でも、人にとっての本当の幸せは、仏様に出遇うことなのです。思いのままになる人生を求めていく先にあるのは、虚しさでしょう。思いのままにならない老いと病と死は、けっして避けることができないからです。私の老いも病も死も、仏様は、大切に慈しんでくださいます。思いのままにならない中にも、大切な意味があることを教えてくださいます。仏様に出遇うというのは、けっして揺らぐことのない本当の拠り所に出遇うことなのです。

世間の中だけで人生を終えていくことは、本当にもったいないことです。多くの先人の方々が、私の為に遺してくださった本堂にお参りをし、仏様に出遇い、たくさんの感動をいただく毎日を大切にさせていただきましょう。

 

 

2022年6月1日

「浄土真宗のお寺が繁盛するとは」

【住職の日記】

先日、福岡県田川郡にある庵で、御法話をさせていただくご縁をいただきました。庵(いおり)というのは、元々、僧侶が暮らす小さな家のことを言います。お寺に住む住職だけが僧侶ではありません。お寺に住持せず、普通の家に住み、一般の仕事をしながら、阿弥陀如来様のお心をお伝えする教化活動に勤しんでおられる僧侶の方も少なからずおられます。この度、そんなご自宅で教化活動をされている、あるご縁のある僧侶の方からお招きに預かり、本当に尊いご縁をいただいたのです。

庵の中に上がらせていただくと、十畳から十二畳ぐらいの和室に、ご本尊の阿弥陀如来様が御安置され、寺院のような立派なお荘厳が設えてありました。お仏壇ではなく、本堂のお内陣のような立派な設えです。この部屋で、定期的に御法座や勉強会が開かれているということでした。住職がご縁をいただいた御法座は、永代経法要並びに庵主様の曾祖母に当たられる方の五〇回忌法要でした。庵主様は、元々日蓮宗の檀家の家で生まれ育ったそうですが、母方の曾祖母様の子守歌のようなお念仏に育てられて、やがて浄土真宗の僧侶になられたそうです。

寺院ではありませんので、特定の御門徒という立場の方々はいらっしゃいません。しかし、御法座の時間になると、コロナ禍にも関わらず、参詣者の方々で部屋がいっぱいになり、部屋に入りきれない参詣者の方々が、玄関の土間や廊下にも座られ、庵の中全体が、参詣者で溢れるような状態になったのです。しかも、年代も様々、性別も様々です。八〇歳代のお年を召された方もおられれば、三〇歳代の若いご夫婦もおられました。

休憩時間に、庵主様に、参詣者の方々についてお尋ねをさせていただきました。すると、いつもお参りしてくださる方々に加えて、庵主様も知らない方々がたくさんおられるというのです。重ねて、どういう形の広報活動をされておられるのかについてもお尋ねをいたしました。すると、有縁の方々に案内のお手紙を差し上げるぐらいで、ほとんどが口コミだとおっしゃるのです。ホームページや広告を見て、お参りされたのではないのです。お念仏を喜ぶ人々の口伝えで、ご縁の輪が広がっているのです。遠いところは、車で一時間程度かけて、お参りされている方もおられるということでした。遠近各地より、老若男女の方々が、ただただ阿弥陀如来様のお慈悲を聞き味わうために集まってこられる光景は、本来のお寺の原点を教えてくださる本当にありがたいものでした。

浄土真宗のみ教えを、日本全国に広めていかれた蓮如上人のお言葉の中に、次のようなものがあります。

「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。」

浄土真宗のお寺が繁盛するというのは、人が多く集まり活気があることが、繁盛していることではないというのです。一人でも阿弥陀如来様の真実のお心をいただき、お念仏を喜ぶ人が出てくることが、浄土真宗における繁盛だと言われるのです。実際には、蓮如上人が組織された本願寺教団には、全国から数万人の人々が押し寄せていました。しかし、それは、蓮如上人にとっては、本来の目的ではなかったのです。蓮如上人にとっての苦心は、人集めにあったのではなく、本当のお念仏のお心を、どう人々に伝えていくかにあったのです。

本来、煩悩を抱える人間は、本当のことを求めているのだと思います。みんな、ごまかしではない、本当のことを聞きたいのです。煩悩を抱える人間境涯は、信じていたものが一瞬で姿を変える恐ろしい世界です。信じていたものが一瞬で崩れ去り、味方だと思っていたものが敵になり、敵だと思っていたものが味方になる、愛憎渦巻く混沌とした世界に身を置いていることは、人生の中で誰もが感じることでしょう。

しかし、親鸞聖人は、この当てにならない人間境涯において、阿弥陀如来様の清らかな願いに出遇わせていただくなら、その人の人生は、けっして虚しく過ぎていかないと教えてくださいます。煩悩を抱える私を、深く悲しみ温かく慈しんでくださる如来様の願いは、あらゆるものが流れ去るこの世界にあって、けっして流れ去ることのない本当のことだからです。愛憎渦巻くこの世界は、阿弥陀如来様のお慈悲を味わい確認することのできる尊い世界でもあるのです。

仏法は、人が伝えるものではなく、仏法そのものの力によって伝わるものなのでしょう。お念仏を喜ぶ人のところには、磁石に引きつけられるように、自然と人が集まってくるものです。共々に、お念仏を喜ぶ人々が溢れる場所として、お寺を大切にさせていただきたいものです。

 

 

2022年5月2日

「煩悩具足の凡夫」

【住職の日記】

連日、ウクライナでの悲惨な現状がニュースで流れています。人の命が、桁違いに亡くなり、悲しみが渦巻いていく映像に、心が痛みます。人間は、何千年経っても、同じ過ちを繰り返すものであることを教えられています。自らの都合を貪り、都合を邪魔するものに怒りを起こしていく人間の根本煩悩は、地獄という世界を作り出していきます。仏様が教えてくださっていることを、今一度、大切に聞かせていただく必要があるように思います。

日本に本格的に仏教を伝えた最初の人は、聖徳太子だと言われています。それは、仏像や寺院といった文化的なものを伝えたという意味ではありません。お釈迦様のみ教えの精神を正しく受け止めていかれた最初の日本人が、聖徳太子なのです。

それは、有名な『十七条憲法』に表われています。『十七条憲法』の第一条は、「和らかなるをもつて貴しとなし・・・」という有名な言葉から始まります。本当に貴いものとは、天皇や貴族のことではなく、みんなが思い合う平和な状態のことを言うのだというのです。そして、それに続く第二条は、「篤く三宝を敬ふ。三宝とは仏・法・僧なり。」という言葉で始まります。平和が成立する一番の根源は、仏・法・僧の三つの宝を敬うところにあるというのです。仏とは、あらゆる命を心から慈しみ悲しむことができる真実に目覚めた仏様です。法とは、その仏様が、私達を正しい方向へと導くために教えてくださるみ教えです。僧とは、その仏様のみ教えを聞き敬う人々の集団のことです。この三つを宝物とし、心の拠り所として人々が生きたとき、初めて社会に本当の平和が成立すると教えてくださったのです。そして、その後には、「それ三宝に帰りまつらずは、なにをもつてか枉れるを直さん。」と示されます。この仏・法・僧の三宝を拠り所としなければ、自己中心的に曲がった根性は、決して正されないと言われます。

自己中心的に曲がった根性については、第十条で示されていきます。第十条は、「忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふを怒らざれ。」という言葉で始まります。難しい表現で語られていますが、人から気に入らないことを言われたからといって、腹を立ててはならないということです。その後には、「人みな心あり、心おのおの執ることあり。」と続きます。みんな心というものを持っていて、みんなそれぞれに思っていることが違うというのです。その後には、「かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みすればすなはちかれは非んず、われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。」と続いていきます。相手にとって正しいことが、そのまま私にとっても正しいこととは限りません。逆に、私にとって正しいことが、相手にとって正しいこととは限らないのです。そして、それは、私が決して間違いを犯さない聖人なのでもなく、相手が、必ず間違いを犯す愚か者なのでもないのです。お互いに過ちを犯しやすい普通の人だと言われているのです。また、その後には、「是く非しきの理、たれかよく定むべき。」と言われています。普通の人間には、誰が絶対的に善であり悪であるのか、是が非を決めていくことなど、できはしないんだと言われるのです。

この普通の人間が、仏・法・僧の三宝を見失ったとき、どんな恐ろしいことが起こっていくか分からない。だから、常に仏様のみ教えを拠り所として生きることを忘れてはならないと、聖徳太子は、当時の最高権力者として示していかれたのです。

お釈迦様は、人を苦しめる根源は、自らの煩悩にあることを教えてくださいました。平常時は、穏やかな流れの河も、濁流となれば、止める術はありません。一度、激しく燃え上がった炎も、簡単には消し去ることはできないのです。人は、平常時は、穏やかに見えても、自らの貪りの濁流に呑み込まれ、自らの怒りの炎に激しく焼き尽くされていく悲しさを抱えています。

人は、自分の力で自分をコントロールできない弱い存在です。そのことを親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫という言葉で表現されていかれました。しかし、煩悩具足の凡夫は、弱く深い悲しみを抱えるが故に、阿弥陀如来の救いの目当てとなったのです。私達は、見捨てられた存在ではありません。仏様から願われている存在なのです。

今、世界は、大きな悲しみに包まれています。この悲しみは、弱いが故の残酷な人間が作り出したものです。私の中にも、同じように、大きな悲しみを生み出していく恐ろしさがあることを知っておくべきでしょう。仏法を拠り所として、自分自身の姿を見つめ直す日々を大切にさせていただきましょう。

 

 

 

2022年3月30日

「縁起の道理」

【住職の日記】

先日、あるお寺の御住職から、次のようなお話を聞かせていただきました。それは、その御住職が、御門徒のお宅にご法事のお勤めに上がられた時のことです。家の前に車で到着すると、ご親戚の方々が、家の中に上がらず、玄関の前で集まってお話をされていたそうです。御住職が、ご親戚の方々に「どうされましたか?」とお声を掛けると、ご親戚の方々が「鍵が閉まっているんです。インターフォンを鳴らしても、電話をしてみても、何の返事もないんです。」とおっしゃいます。とりあえず、鍵の業者さんに依頼をし、玄関の鍵を開けてもらったそうです。すると、その家のご主人は、台所のテーブルに突っ伏したまま亡くなっておられたといいます。警察の検死の結果、お食事中に、心臓の血管が詰まり、突然死をされたということでした。亡くなってから、数日経過していたそうです。そのご主人は、一人暮らしだったそうですが、もし、ご法事の約束をしていなければ、誰にも見つけられることなく、さらに月日が経過していたことでしょう。孤独死という現実が、身近にもあることを教えられた悲しくなるお話でした。

現代は、「孤独」という言葉が、世の中に溢れているような気がします。個人の権利が守られる一方で、他人との繋がりが希薄になっているように思います。その傾向は、コロナ禍の中で、さらに顕著になってきているのではないでしょうか。他人に無関心になっていく社会は、どこか病的な感じさえします。命ある者にとって、孤独ほど、恐ろしいものはありません。

仏教において、悟りを開き仏に成っていくというのは、この孤独を破っていく世界に目が開かれていくことだと思います。仏様の悟りの内容は、私達には思いはかることのできないものですが、学問の世界では、それを「縁起の道理」と定義しています。お釈迦様は何を悟られたのか、それは縁起の道理を悟られたと言われているのです。縁起の道理というのは、日本では「ご縁」という言葉と共に、日本人の感性に根付いてきました。私が、不思議な繋がりの中に生かされているという感性です。「縁起」というのは、「縁って起こる」という意味ですが、この世界のあらゆる命や出来事は、縁って起こっているものしかないというのです。縁って起こるというのは、関係し合っているということです。

例えば、蝋燭に灯っている火を考えてみましょう。火というのは、火だけの力で発生し存在することはできません。何もないところから火は出ません。まず引火する蝋がなければなりません。その蝋も、様々な働きの中で用意されていきます。しかし、蝋だけがあっても火は発生しません。マッチやライターが必要です。また、真空では火は発生しません。空気が必要です。その空気も風に変わる環境では火は灯りません。風の吹かない穏やかな空気が保たれる場所でなければなりません。その空気も、広大な宇宙の中で、どの星にも当然のようにあるわけではありません。地球に空気があるというのも、果てしない縁の重なり合いの中で、たまたまここに存在したのです。少し考えても、蝋燭に灯っている火というのは、思い測ることのできない様々なご縁の中で実現しているものなのです。そして、灯った火もまた、様々なものに関係していくのです。命も同じ道理です。一つの命が実現している根っこには、思い測ることのできない様々なご縁の重なり合いがあります。網の目のような無数のご縁の重なりは、途切れることはありません。無限の広さと深さを持っています。どんな人間、どんな生き物も、みんな深いところで繋がりを持っているのです。

仏様というのは、縁起の道理を完全に悟り、私とあなたという区別さえない世界に目が開かれた方を言うのです。あらゆる命が我が一人子のように愛おしく、あらゆる命の悲しみが仏の悲しみなのです。そんな仏様に死はありません。仏様という命は、個体の枠に収まるものではないからです。個体の命が消滅しても、命そのものは、無限の広さと深さを持つものなのです。

孤独になるというのは、真理とかけ離れた悲しい姿です。しかし、迷いの凡夫である私達は、真理に暗く孤独に落ち込んでいきます。仏様のみ教えというのは、「一人ではないのだよ」という一言に尽きていくのかもしれません。仏様のお言葉を聞かせていただくというのは、孤独が破られていく世界に目が開かれていくということでしょう。

孤独感が深まる時代の中に、仏様のみ教えを聞かせていただくことの大切さを、改めて感じます。コロナ禍の中、仏様のみ教えに耳を傾け、生かされている身の尊さを喜ばせていただきましょう。

 

 

 

2022年2月28日

「仏教を学んで、何の役に立つのですか?」

【住職の日記】
今年もコロナ禍の中、多くの皆様の御報謝をいただき、無事、親鸞聖人の御正忌報恩講が勤まりました。連日、過去最高の感染者数を更新する中、本当に、たくさんの皆様がお参りくださいました。無病息災を祈るためではなく、多くの方々が、御恩報謝のためにお参りされ、仏様のお心をお聴聞される報恩講の光景は、なによりも尊いものだと思います。

この度の御講師をお願いした赤井智顕先生は、住職の大学院時代の後輩にあたります。三日間、とても丁寧に楽しくありがたくお話くださいました。その中で、二日目の夜座でのお話をご紹介します。それは、先生が、非常勤講師を務めておられる京都の龍谷大学で経験されたお話でした。

龍谷大学の歴史は、一六三九年(寛永十六年)に西本願寺内に設けられた僧侶を教育する学校が始まりです。現在でも、浄土真宗本願寺派の総長が学校法人の理事長を務め、浄土真宗を建学の精神として大学教育を進めています。しかし、現在は、一〇学部三〇学科を擁する総合大学に成長し、学生数も二万人を超えます。二万人の学生のほとんどは、お寺とは関わりのない一般家庭の子ども達です。入学した大学が、たまたま浄土真宗を建学の精神としている学校だったという学生がほとんどなのです。そんな学生のほとんどは、経済学部や法学部などの一般の学生です。仏教を学びにきた学生ではありません。しかし、龍谷大学は、二万人を超える全ての学生に対して、仏教学を必修科目としているのです。経済学部の学生も理工学部の学生も、仏教学の授業を受講し、仏教学の試験に合格しなければ、卒業できない仕組みにしているのです。受講しなければ卒業できないので、学生達は、仕方なしに仏教学の授業を受講します。そんな学生達を前に、仏教を、どうやって伝えていくか、講師の先生達も本当に頭を悩ませているといいます。

ある日のことです。仏教学の講義を終え、教室で帰りの支度をしているとき、受講していた学生から質問があったそうです。その質問は、「仏教を学んで、何の役に立つのですか?」というものだったそうです。自分の将来に役立たせるために、経済学や法律学を学びに大学に入学したという学生は多いでしょう。そんな学生達からすれば、社会で役に立ちそうにもない仏教を強制的に学ばされることは、苦痛以外の何者でもなかったのかも知れません。そんな学生に対して、次のような会話を交わしたといいます。「一緒にいるのはお友達?」「はい。」「仲いいの?」「まあ、仲いいですね。」「役に立つから仲がいいの?」「いや、、、」「お母さんのことは、大切に思っている?」「はい、、」「お母さんも役に立つから?」「いや、、、」「役に立つか立たないかで、どんな物事も判断していくのは、どこか判断する物差しが歪んでいるんじゃないかな。仏教は、そんな自分が持っている物差しを疑い、仏様の物差しを学ばせてもらうんだよ。」

こんな会話だったそうです。その学生は、何かに気づいてくれたような、はっとした表情をしてくれたそうです。仏様のお話を聞いていくことの大切な意味を伝えてくださった、とても味わい深いお話でした。

親鸞聖人が尊敬された七人の高僧の中に、善導大師というお方がおられます。中国の唐の時代の方です。その善導大師が遺されたお言葉に「学仏大悲心」というものがあります。「仏教を学ぶというのは、仏様の大きな悲しみを学ぶことである」という意味です。大きな悲しみというのは、無数の命が抱える無数の悲しみを、共に限りなく悲しんでいく心です。役に立つ物だけが、大切なのではありません。何の役にも立たないような存在も、仏様には、愛されるべき尊さを持った存在なのです。

人間が当たり前に持っている我欲が作り出す浅ましい心の世界は、私達を方向性のない無秩序な迷いの世界に落とし込めていきます。方向性がないというのは、何のために生まれきたのか、何のために生きるのか、死んでどうなっていくのか、全く分からず、生き様も死の味わいも、何も定まっていかないということです。けっして思い通りにはいかない人生の中で、どれだけのものが、私の役に立つものだったでしょうか?私が切り捨て、見ないようにしてきた役に立たない悲しみや悔しさの中にこそ、大切にすべき多くの意味があるのかも知れません。それは、仏様のお心を学ぶ中に、一人一人が、それぞれの人生の中で味わい気づいていくことでしょう。

お寺の御法座は、役立つ知識を増やすために、難しい話を聞きに行くのではありません。方向性のない私が、新しい気づきと明るさをいただきに行くのです。今年もコロナ禍が続く中ですが、たくさんのお参りをお待ちしております。

 

 

 

 

2022年2月1日

「お聴聞」

【住職の日記】
明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、一日一日を丁寧にいただいて参りましょう。

先日、ある御門徒の方の二十五回忌のご法事にお参りさせていただいた時のことです。施主様から二十五回忌を迎えるお父様について、次のようなお話を聞かせていただきました。

「来月は、御正忌報恩講ですね。コロナが、早く落ち着くといいですね。父は、御正忌報恩講の三日間は、正法寺に泊まり込んでお聴聞していました。昔は、多くの人が、御正忌報恩講の三日間、お寺に泊まり込んでお聴聞していたみたいですが、父は、最後まで泊まっていた人の一人です。お寺に迷惑がかかるからと家族が止めても、最後までお寺に泊まることをやめようとしませんでした。最後は、病院に入院していましたが、お寺の御法座があるときには、外出許可を取って、病院からお寺にお参りしていました。本当に、お聴聞が好きな父でした。懐かしいですね。御正忌報恩講を迎えると、いつも父のことを思い出します。」

「お聴聞」ということを、人生の柱にして生きられた先人の方の尊いお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

浄土真宗において、仏様のみ教え、そのお心を聞かせていただくことを「お聴聞」といいます。そして、この「お聴聞」が、浄土真宗において、最も大切な行いになります。浄土真宗では、特別な戒律や修行を課すことはありませんが、だからといって、何もしなくてもいいということはありません。心がけてしなければならないことがあります。それが、お聴聞です。

聴も聞も同じ「きく」という言葉ですが、聴は、「明らかに聴く」という意味があります。「聴く」というのは、自ら自発的に求めて聴いていくことをいうのです。一方で、聞は、「そのまま聞く」という意味があります。「聞く」というのは、自ら聴くのではなく、聞こえてくるものをそのまま素直に聞くことをいいます。仏様のお心を聞くには、それを求める心がなければ聞くことはできません。仏様に無関心で、仏法を求めていない人が仏様のお心を聞いても、何も響いてこないでしょう。話だけが素通りしていくだけです。一方で、仏様のお心を求めていたとしても、自分の都合よく仏様のお心を聴いてしまうと、そのまま聞くことにはなりません。仏様は、本当のことを教えてくださいますが、本当のことは、私にとって必ずしも都合のいいことばかりではないのです。自分の価値観を主体にして、仏様のお言葉を受け止めてしまうと、仏様のお心は自分の影に隠れてしまいます。「お聴聞」というのは、聴と聞とがピタッと合わさる中で成立する非常に繊細な行いなのです。

江戸時代末期、下関市の六連島に「おかるさん」と呼ばれた尊い念仏者がおられました。夫の浮気がご縁となり、仏法を真剣に求めて聴くようになったと言われています。現在でも六連島には、「身投げ岩」と呼ばれる、おかるさんが、投身自殺を図ったと言われる場所があります。そんな、おかるさんも、最初は、求めて仏法を聴いても、仏様のお心は聞こえてこなかったといいます。聞こえてくるのは、愛憎に狂う自分の心だけです。お慈悲が聞こえてこず、救われようのない自分に、何度も絶望したといいます。しかし、真剣に仏法を重ねて聴くうちに、だんだんと自分の悲しい姿が見えてきたといいます。それは、人を呪い、怨み、妬まねばならない自分自身の悲しさです。夫もその浮気相手も、地獄の底へ突き落としてやりたいと思い続けている、その自分の罪業の深さを思うと、地獄の底へ落ちていかなければならないのは、むしろこの自分ではないか。罪業深重という言葉が、我が身のこととして響いてきたというのです。自分の都合ではなく、本当のことが聞こえてきたということです。

おかるさんは、晩年、こんな詩を詠んでいます。 「重荷せおうて山坂すれど 御恩思えば苦にならず」 人生というのは、様々な重荷を背負って、山坂をくぐり抜けていかなければなりません。人間は、生きている限り煩悩を燃やし続けます。それだけに様々な苦悩を背負っていかなければならないのです。しかし、その苦悩の重荷を、単なる愚痴の種にしてしまわずに、仏法を味わう尊い縁として、人生これ念仏の道場なりと頂いていくような心の眼が開かれていくのが、お聴聞を柱とした浄土真宗の仏道の姿なのです。

今年も、御正忌報恩講をお迎えします。お聴聞を人生の柱として生き抜かれた多くの先人の方々のみ跡を慕い、親鸞聖人の御遺徳を味わいながら、我が身のこととして、大切にお聴聞させていただきましょう。

 

 

 

 

2022年1月1日